2012年4月12日 星期四

『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)


東海道徒步旅行記 
 【《東海道徒步旅行記》(日)十返舍一九著,鮑耀明譯,山東畫報出版社2011年8月出版。定價:35元。】

 頗值得一提的是,小說的譯者鮑耀明先生原本是知堂老人的好友,一位名符其實的日本通。他以九十歲的高齡翻譯這部名著,一方面是為了完成知堂老人的生前夙 願;另一方面,他與知堂老人一樣,「最能夠真正理解日本民族的長處」,對江戶時代的這部古典名著也一直抱有極大的興趣。鮑先生說:「竊以為當世精通日本文 學者不少,勝我者更多,不在話下,但日本文學與江戶方言兼懂的人士可能就不會太多了。」而他本人則出生於日本橫濱,就讀於東京大學,恰恰正是兼通日本文學 與江戶方言的人士。所以,我們在鮑先生的譯文中既能夠領略到十返舍一九的文字神韻,而他對原著的細心把握與熨貼處理,亦不能不令人拍案叫絕。



■王 淼
 約略相當於中國的晚明至滿清時期,日本的江戶時代同樣是一個很好玩的時代—城市崛起,商業繁榮,隨 之而來的,則是市民文化盛行,市井文學勃興。日漸富裕的城市居民在酒足飯飽之餘,開始追求聲色犬馬的感官享受。所謂:「四海波平浪靜,天下太平盛世,夫妻 連理常青。」而暢遊東西南北的漂泊之旅,居然也成為一時風尚。十返舍一九的著名「滑稽本」《東海道徒步旅行記》,即產生在這樣一種時代大背景之下。 

 在日本民間,《東海道徒步旅行記》是一部廣為人知的「滑稽本」,不僅問世當時即洛陽紙貴,後世模仿 之作更是層出不窮。「滑稽本」云云,原是江戶時代的一種小說體裁,內容多為市井故事,大都借助語言上的插科打諢,反映世間百態,揭示人性弱點,借調侃嬉鬧 之名,行戲謔嘲諷之實。十返舍一九與式亭三馬並稱,俱為「滑稽本」名家,而他的《東海道徒步旅行記》,當然也是「滑稽本」的代表作之一。小說寫兩位市井小 人物的一次東海道徒步旅行,他們自江戶的日本橋出發,循著那條著名的沿海驛道,經橫濱、田原、沼津、京都、大阪等地,前往伊勢參拜大神宮。這二人身上幾乎 具有一般小市民所能夠具有的所有毛病:愚昧,虛榮;好吃懶做,貪財好色;喜歡說大話,愛沾小便宜……他們一路上相互調侃,彼此搞笑,總是自作聰明,總是弄 巧成拙—諸如,穿著木屐進浴,結果踏穿釜底;冒充名士騙吃騙喝,最後被人揭穿;偷看新婚夫婦行房,卻推倒紙門,壓在新郎身上,等等。自然沒少幹了偷雞不成 蝕把米的勾當。這二人頗有點像是古戲文中的丑角,雖然洋相百出,卻總不自知;雖然有些吊兒郎當,卻也算不上是什麼壞人。江戶時代的山川景色與風土人情,就 在這種喜劇的氣氛中慢慢拉開帷幕,惟妙惟肖地一一展現在我們面前。 

 前一段時間,我讀日本浮世繪巨匠歌川廣重繪製的《東海道五十三次》,雖然為書中收錄的「寂寞或者悲 哀,還有他平靜的智慧」的浮世繪而感到驚艷,但對其深厚的文化背景卻未免了了,總是有點感覺隔膜。今讀《東海道徒步旅行記》,不僅對歌川廣重的浮世繪多了 幾分體貼的理解,就連十返舍一九的文字也同時具有了一種畫面感—似乎能夠看到兩個悠閒自在的市井小民,隨心之所欲、腳之所至,無拘無束、無牽無掛地走在路 上。無論是風和日暖,還是風雨交加,他們總是興高采烈、興致勃勃;不管是遭到挫折,還是遭遇尷尬,都無法影響他們的好興致和好心情。這種積極、樂觀的市民 精神,當然也是一個時代的產物—十返舍一九寫得十分熱鬧,其間故事雖然不免有些誇張,但事實卻多從世俗中來,所以,讀來也並不會覺得怎麼荒誕。尤其饒富趣 味的是,十返舍一九的文字還天生帶有一種「冷幽默」的色彩,這邊廂他寫得一本正經、煞有介事,那邊廂你卻早已讀得喜不自禁,乃至不自覺地笑將起來。


【中文詞條】十返舍一九
【作  者】倪玉
(1765~1831)
         日本小說家。本名重田貞一。青年時期曾在地方官的私邸中當過食客﹐後在大阪流浪﹐和若竹笛躬﹑並木千柳等合寫過淨璃。 1795年發表黃表紙處女作《心學鐘草》。此後兩年每年發表黃表紙20部左右。1802至1822年寫成滑稽小說《東海道徒步旅行記》。小說採用寫實的手 法﹐描寫一次長途旅行的故事﹐諷刺了江戶時代某些人趨炎附勢﹑諂媚逢迎和假充行家等卑劣行為。全書分正篇與續篇﹐共43冊﹐書中穿插狂歌和各地的風俗奇聞 ﹐發表後獲得好評﹐對歌舞伎也有不小的影響。他的作品僅黃表紙和合卷類就達 360種﹐加上長篇傳奇﹑戀愛小說和故事有數百種。代表作還有《怪談雨夜鐘》(1803)﹑《鬼怪太平記》(1804)﹑《江之島土產》(1809)﹑ 《詼諧二日醉》(1811)﹑《金草鞋》(1813~1834)等。十返舍一九被稱為日本滑稽小說兩大作家之一。他開創了旅行記這一文學樣式﹐其影響一直 延續到明治初年。

十返舎一九
(じっぺんしゃ いっく)
十返舎一九.jpg
国貞筆「戯作者六家撰」
誕生 1765年
静岡市
死没 1831年9月12日
東京
職業 戯作者
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1789年 - 1822年
ジャンル 黄表紙滑稽本合巻
代表作 『東海道中膝栗毛』
処女作 『心学時計草』

    『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)は、1802年享和2年)から1814年文化11年)にかけて初刷りされた、十返舎一九滑稽本である。後続の『続膝栗毛』は、1810年(文化7年)から1822年文政5年)にかけて刊行された。大当たりして、今に至るまで読みつがれ、主人公の弥次郎兵衛と喜多八、繋げて『弥次喜多』は、派生する娯楽メディア類に、なお活躍している。
  弥次さんと喜多さんの像  (京都三条大橋

目次

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あらすじ [編集]

『栗毛』は栗色の馬。『膝栗毛』とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意である。
江戸神田八丁堀の住人栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ)と、居候の喜多八(きたはち)が、厄落としにお伊勢参りを思い立ち、東海道江戸から伊勢神宮へ、さらに京都大坂へとめぐる。道中の二人は、狂歌洒落・冗談をかわし合い、いたずらを働き失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを起こす。

登場人物 [編集]

弥次郎兵衛(やじろべえ)
東海道の旅に出発当時数え歳50歳(満49歳)。屋号は「栃面屋」。肥っていて、作者によると「のらくら者」「ただのおやじ也」という。作中では下俗で軽薄な性格設定がされているが、一方で楽器を演奏し、古今の書籍に通暁し、狂歌や漢詩、また法律文書も自在に作成するなどきわめて教養程度の高い人物として描かれる。駿河国府中(現静岡市)出身、実家は裕福な商家であったが遊蕩が過ぎて作った借金がもとで江戸に夜逃げし「借金は富士の山ほどある故に、そこで夜逃を駿河者かな」と身の上を詠んでいる。江戸では神田八丁堀の長屋で密陀絵などを製作して生活していたが妻と死別し、つまらぬ身の上に飽き果て旅に出ることを決意する。
喜多八(または北八・きたはち)
出発当時数えで30歳(満29歳)。弥次郎兵衛の居候。元々は弥次郎兵衛の馴染みの陰間であったが、弥次郎兵衛とともに江戸に夜逃げしてくる。ある商家に使用人として奉公するが、使い込みが露見したことと、女主人に言い寄ろうとして不興を買い解雇されて行き場を失い、弥次郎兵衛とともに旅立つ。

経緯 [編集]

一九は寛政7年(1795年)から、職業作家として多くの黄表紙ほかを出していたが、まだ大ヒットはなかった。この滑稽本の初編は、享和2年(1802年)正月に、村田屋治郎兵衛が出版した。一九が、挿絵を描き、版下の清書もするという安直さに、乗ったらしい。
当たったので、翌年、続編を出した。書名はそれぞれ『浮世道中 膝栗毛』『道中膝栗毛 後篇 乾坤』で、『東海道中 膝栗毛』の外題になったのは、つぎの第3編からであった。そして、『東海道中』シリーズは、文化6年(1809年)の第8編(大阪見物)で一段落したが、 文化11年(1814年)に、旅立ちの発端(はじまり)の編が、追いかけて出された。序編が、最後に書かれたのである。
一九は、頻繁に取材の旅をしたが、京都は未見で、「名所図会」などによったのではと言われる。狂歌が多くはさまれている。狂言浄瑠璃歌舞伎浮世草子落語川柳などに関する彼の素養が、篇中に生かされている。長編としての一貫性がととのっているとは、言い難い。
一九はさらに『続膝栗毛』シリーズを書き、弥次喜多は、金比羅宮嶋木曾善光寺草津温泉中山道へと膝栗毛し、21年後にようやく完結した。
出版の経年的なデータを、次節にまとめる。
版元は、第4編まで『通油町 村田屋治郎兵衛』であったが、第5 - 8編には、江戸の『本石町二丁目 西村源六』・『通油町 靏(鶴)屋喜右衛門』と、大阪の『心斎橋唐物町 河内屋太助』も加わり、後発の『発端』のそれは、『馬喰町二丁目角 西村屋與八』であった。『通油町』は、現在の中央区日本橋大伝馬町である。
挿絵は、『発端』の喜多川式麿のほかは、ほとんど一九の自画である。
文化6年(1809年)発行の第8編末の広告に、「版木が減ったので、初編を再板」する旨が、すでに記されている。ヒット作ゆえに、古版木を加工したり、版木を彫りなおしたりの異本は多く、文久2年(1862年)の改版が知られ、その後も翻刻が重ねられて来た。

初刷本のデータ [編集]

東海道中膝栗毛 [編集]

  • 1802(享和2年):『浮世道中 膝栗毛』(品川 - 箱根)
  • 1803(享和3年):『道中膝栗毛 後篇 乾坤』(箱根 - 蒲原)(蒲原 - 岡部)
  • 1804(文化元年):『東海道中膝栗毛 三編 上下』(岡部 - 日坂)(日坂 - 新居)
  • 1805(文化2年):『東海道中膝栗毛 四編 上下』(荒井 - 赤坂)(赤坂 - 桑名)
  • 1806(文化3年):『東海道中膝栗毛 五編 上 下 追加』(桑名 - 追分)(追分 - 山田)(伊勢めぐり)、(歌川豊国の口絵)
  • 1807(文化4年):『東海道中膝栗毛 六編 上下』(伏見 - 京都)(京都めぐり)、(歌川豊国の口絵)
  • 1808(文化5年):『東海道中膝栗毛 七編 上下』(京都めぐり)(京都めぐり)、(勝川春亭の口絵)
  • 1809(文化6年)『東海道中膝栗毛 八編 上中下』(大阪見物)(大阪見物)(生玉 - 住吉)、(喜多川式麿と北川美丸の口絵、喜多川月麿の挿絵、1葉ずつ、他は自画)
  • 1814(文化11年):『東海道中膝栗毛 発端』、(喜多川式麿画)

続膝栗毛 [編集]

  • 1810(文化7年):『金比羅参詣 続膝栗毛 初編 上下』、(月麿・式麿画、自画)、村田屋治郎兵衛
  • 1811(文化8年):『宮嶋参詣 続膝栗毛 二編 上下』、(葛飾北斎口絵、自画)、村田屋治郎兵衛
  • 1812(文化9年):『木曾街道 続膝栗毛 三編 上下』、(月麿・式麿画)、西村屋與八
  • 1813(文化10年):『木蘇街道 続膝栗毛 四編 上下』、(月麿画)、西村屋與八
  • 1814(文化11年):『木曾街道 続膝栗毛 五編 上下』、(月麿・式麿画)、河内屋太助、森屋治兵衛、西村屋與八
  • 1815(文化12年):『木曾街道 続膝栗毛 六編 上下』、(式麿画)、鶴屋金助
  • 1816(文化13年):『岐曾続膝栗毛 七編 上下』、(二世喜多川歌麿の口絵)、鶴屋金助
  • 1816(文化13年):『従木曾路善光寺道 続膝栗毛 八編 上下』、(二世歌麿の口絵)、鶴屋金助
  • 1819(文政2年):『続膝栗毛 九編 上下』(善光寺道中)、(渓斎英泉の口絵)、伊藤與兵衛
  • 1820(文政3年):『続膝栗毛 十編 上下』(上州草津温泉道中)、(勝川春亭の口絵)、伊藤与兵衛
  • 1821(文政4年):『続膝栗毛 十一編 上下』(中山道中)、(春亭の口絵)、伊藤與兵衛
  • 1822(文政5年):『続膝栗毛 十二編 上中下』(中山道中)、(自画)、伊藤與兵衛

最近の出版 [編集]

原著 [編集]

現代語訳 [編集]

  • 村松友視の東海道中膝栗毛:講談社 (2001)、 ISBN 9784062545556
  • 谷真介訳:ポプラ社 21世紀によむ日本の古典18 東海道中膝栗毛 (2002)、ISBN 9784591071434

膝栗毛物 [編集]

『東海道中膝栗毛』からヒントを得た作品に、次などがある。

出典 [編集]

ウェブ情報のほか、上記『最近の出版』、『原著』の項の、図書3冊。および、
  • 山崎麓編:日本文学大系25 日本小説書目年表、国民図書 (1929)

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]


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