2013年7月27日 星期六

正岡子規直筆の「一茶評」戸隠で発見/「一茶の俳句を評す」…正岡子規の直筆原稿発見

正岡子規直筆の「一茶評」戸隠で発見 あふれる敬愛

(2013年7月26日)
 俳人小林一茶(上水内郡信濃町出身)の作品を評する正岡子規の自筆原稿が25日までに、長野市戸隠の民家で見つかった。原稿の1枚目(写真)には「一茶の特色は主として滑稽、諷刺(風刺)、慈愛」などとつづり、訂正した様子も残っている。  俳人小林一茶(上水内郡信濃町出身)の作品を評する正岡子規の自筆原稿が25日までに、長野市戸隠の民家で見つかった。原稿の1枚目(写真)には「一茶の特色は主として滑稽、諷刺(風刺)、慈愛」などとつづり、訂正した様子も残っている。

 明治時代を代表する俳人・歌人正岡子規(1867~1902年)が、上水内郡信濃町出身で江戸時代の俳人小林一茶(1763~1827年)の作 品などを収めて1897(明治30)年に刊行された「俳人一茶」に寄稿した自筆原稿が25日までに、長野市戸隠の民家で見つかった。一茶の俳句を高く評価 した内容がつづられている。子規記念博物館(松山市)によると、子規の自筆原稿は散逸するなどして現存数が少なく、全国的にも非常に珍しい。

 同館によると、子規自筆の書簡や短冊は多数確認されているが、原稿は、同館が把握する限り20点に満たないという。

 一茶研究家で子規にも詳しい矢羽(やば)勝幸・二松学舎大客員教授=上田市=と、信濃町の一茶記念館が、子規記念博物館から提供を受けた資料などを基に し、筆跡や原稿用紙の年代などから子規の自筆原稿と判断した。矢羽さんは「一茶への評価を記した子規の唯一まとまった資料で、子規を研究する上でも意義が ある」としている。

 原稿は計5枚で、1枚が縦21・5センチ、横29・5センチ。5枚を縦に並べて掛け軸に表装されている。原稿は「一茶の俳句を評す」と題し、「一茶の特 色は主として滑稽、諷(ふう)刺、慈愛の三点に在り。中にも滑稽は一茶の独壇に属し、しかも其(その)軽妙なること俳句界数百年間僅(わずか)に似たる者 をだに見ず」などと高く評価。一茶の人柄や俳句の形式などにも言及している。子規記念博物館は「子規は一茶の俳句が勉強になるとしており、注目すべき俳人 の一人と考えていた」としている。
 子規が寄稿した「俳人一茶」は、ともに長野市出身で、国学院大で学んだ青年、宮沢義喜と宮沢岩太郎がまとめた。岩太郎が、子規が勤務、編集する新聞「日本」の購読者で投稿者だったため、子規に校閲や出版への協力を依頼したという。

 義喜のひ孫の宮沢豊穂(とよほ)さん(62)=長野市戸隠=が、一茶生誕250年を機に土蔵を整理していたところ、掛け軸を発見。一茶記念館に持ち込んだ。
 1999年に信濃毎日新聞社が復刻出版した「俳人一茶」の解説を手掛けた矢羽さんによると、本は当時、あまり知られていなかった一茶の存在を全国に知らしめた先駆けとも言える存在だったという。

 自筆原稿は、8月1日から一茶記念館で一般公開される。豊穂さんは「ひいおじいさんが子規を尊敬し、感謝し、大切に保管していた。一茶や子規への理解を深めるためにも、多くの人に見てもらいたい」と話している。
(提供:信濃毎日新聞)




「一茶の俳句を評す」…正岡子規の直筆原稿発見





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発見された正岡子規の直筆原稿
明治の俳人・正岡子規(1867~1902年)の直筆原稿が、長野市の民家で見つかった。
 江戸期の俳人・小林一茶(1763~1827年)の全集に寄稿したもので、子規記念博物館(松山市)によると、確認されている子規の直筆原稿は十数点と少なく、貴重という。
 見つかったのは、原稿用紙5枚。縦に並べて掛け軸に貼り付けられていた。筆が使われ、書き出しには「一茶の俳句を評す」とある。
 一茶の35句を紹介しながら、「一茶の特色は主として滑稽、(ふう)刺、慈愛の三点に在り」と分析。人柄については、「苛政を(にく)み酷吏を悪み無慈悲なる人を悪み俗気多き人を悪む」と評している。
 原稿は一茶の全集「俳人一茶」(1897年刊行)に掲載されたが、原稿そのものが現存していることは知られていなかった。全集の編集者のひ孫、宮沢豊穂(とよほ)さん(62)が今月11日、長野市の自宅の土蔵で発見。署名は子規の雅号の一つ「獺祭(だっさい)書屋主人」となっており、一茶記念館(長野県信濃町)などが、子規記念博物館の図録などを参考に筆跡を調べ、子規の原稿と断定した。
(2013年7月28日17時25分  読売新聞)

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