山本作兵衛 日本語
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日語寫法 | |
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日語原文 | 山本 作兵衛 |
假名 | やまもと さくべい |
平文式羅馬字 | Yamamoto Sakubei |
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[編輯] 略歷
明治25年(1892年)生於福岡縣嘉麻郡笠松村鶴三緒(今‧飯塚市),7歲起隨父、兄下坑,立岩尋常小學校畢業後,明治39年(1906年)入山內炭坑(今‧飯塚市)為礦工。以後輾轉於筑豐各地礦場當採煤工、鍛冶工,並以日記與筆記本留下見聞記錄。63歲起於福岡縣田川市的一處礦場事務所當值班警衛,「為了告訴子孫礦山的生活與人情」而開始執筆作畫,根據個人體驗與傳聞,以筆墨、水彩描繪明治至二次大戰戰後的北九州煤礦,並於餘白加註說明。先後完成1000幅以上畫作,主要作品有畫文集《炭鉱に生きる 地の底の人生記録》(1967年),世稱「礦山的繪師」。昭和59年(1984年)以年高體衰逝世,享年92歲。[編輯] 畫作登錄世界記憶遺產
原先,田川市希望以市內的舊三井田川礦業所伊田豎坑櫓等煤礦遺跡,作為「九州・山口的近代化産業遺產群」之一環申請登錄世界遺產,不過於2009年10月的考核中被刷下。但是當成相關資料提供的山本作兵衛記錄畫,獲得實地考察的國外專家高度評價。因此保存作兵衛畫作的田川市與福岡縣立大學決定為作品申請登記世界記憶遺產[1]。田川市所藏作兵衛畫作585幅(其中584幅是福岡縣指定有形民俗文化財)及相關資料(日記6本,雜記本與原稿等36件),加上山本家所有,由福岡縣立大學保存的繪畫4幅和相關資料(日記59本,原稿等7件),合計697件。田川市與大學雙方於2010年3月向巴黎聯合國教科文組織總部共同遞交推薦書,2011年5月25日獲准,成為日本登錄世界記憶遺產的首例[2]。
[編輯] 關聯項目
- 田川市石炭·歷史博物館
- 洪瑞麟 - 臺灣的煤礦畫家
[編輯] 腳注
- ^ 山本作兵衛の炭鉱畫697點、世界記憶遺産に. 讀賣新聞 九州發. 2011-05-26 [2011-06-25] (日文).
- ^ 築豊の炭鉱畫、國內初の「記憶遺産」に 山本作兵衛作. 朝日新聞. 2011-05-25 [2011-06-25] (日文).
[編輯] 外部連結
- 田川市石炭・歴史博物館「炭坑(ヤマ)の文化 ヤマの文化を見つめた畫家」
世界記憶遺産の作兵衛さん 自伝的映画、東京で再上映へ
日本で初めてユネスコの世界記憶遺産に登録された炭鉱記録画家、山本作兵衛(1892~1984)の絵画をふんだんに取り込んだドキュメンタリー映画が 20~26日、東京都内で上映される。映画完成から7年。国外で高く評価された「庶民」の快挙を記念しての再公開となる。
映画「炭鉱(ヤマ)に生きる」は2004年に完成後、ほとんど劇場公開されず、あまり注目されなかった。今年5月の世界記憶遺産登録を機に東京都中野区の映画館「ポレポレ東中野」での再上映が決まった。
山本は7歳から還暦過ぎまで九州・筑豊地方の炭鉱で働いた。60代半ばから絵筆を握り、亡くなるまでに膨大な作品を残した。素朴な画風だが細部が丁寧に描き込まれ、文章も添えた。
その仕事に感銘を受けた故萩原吉弘監督が、99点を取り込んで映画にした。労働を終えた男女が汗を流す混浴共同風呂、「炭住」と呼ばれる棟割り長屋の夕 飯のにぎわい、メンコや竹馬で遊ぶ子どもたち。ストーリーは山本自身のメモを参考にした自伝的内容で、当時を知る元炭鉱夫らのインタビューやモノクロ写真 を交えながら展開する。
映画「炭鉱(ヤマ)に生きる」は2004年に完成後、ほとんど劇場公開されず、あまり注目されなかった。今年5月の世界記憶遺産登録を機に東京都中野区の映画館「ポレポレ東中野」での再上映が決まった。
山本は7歳から還暦過ぎまで九州・筑豊地方の炭鉱で働いた。60代半ばから絵筆を握り、亡くなるまでに膨大な作品を残した。素朴な画風だが細部が丁寧に描き込まれ、文章も添えた。
その仕事に感銘を受けた故萩原吉弘監督が、99点を取り込んで映画にした。労働を終えた男女が汗を流す混浴共同風呂、「炭住」と呼ばれる棟割り長屋の夕 飯のにぎわい、メンコや竹馬で遊ぶ子どもたち。ストーリーは山本自身のメモを参考にした自伝的内容で、当時を知る元炭鉱夫らのインタビューやモノクロ写真 を交えながら展開する。
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