2013年6月28日 星期五

『夜明け前』島崎藤村



島崎藤村

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島崎 藤村
(しまざき とうそん)
Shimazaki Toson2.jpg
誕生 1872年3月25日
筑摩県第八大区五小区馬籠村(現・岐阜県中津川市
死没 1943年8月22日(満71歳没)
職業 詩人
小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 明治学院普通部本科
活動期間 1897年 - 1943年
ジャンル
小説
文学活動 ロマン主義
自然主義文学
代表作 若菜集』(1897年、詩集)
破戒』(1906年)
』(1908年)
』(1911年)
新生』(1919年)
夜明け前』(1935年)
主な受賞歴 朝日文化賞(1936年)
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島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日明治5年2月17日)- 1943年昭和18年)8月22日)は、日本詩人小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾中山道馬籠[1](現在の岐阜県中津川市)生れ。
文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。

目次

生涯

生い立ち

1872年3月25日明治5年2月17日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村[1]長野県を経て現在の岐阜県中津川市)に生まれた。父は正樹、母は縫。四男だった。生家は代々、本陣庄屋問屋をつとめる地方名家で、祖は三浦半島の津久井の出。父の正樹は17代当主で国学者だった。
1878年(明治11年)、神坂学校に入り、父から『孝経』や『論語』を学ぶ。1881年(明治14年)に上京、泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父・武尾用拙に、『詩経』などを学んだ。さらに三田英学校(旧・慶應義塾分校、現・錦城学園高等学校の前身)、共立学校(現・開成高校の前身)など当時の進学予備校で学び、明治学院普通部本科(明治学院高校の前身)入学。在学中は馬場孤蝶戸川秋骨と交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉西行などの古典書物も読み漁った。明治学院普通部本科の第一期卒業生で、校歌も作詞している。この間、1886年(明治19年)に父正樹が郷里にて牢死。正樹は『夜明け前』の主人公・青山半蔵のモデルで、藤村に与えた文学的影響は多大だった。

『文学界』と浪漫派詩人

卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた北村透谷星野天知の雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職する。その後関西に遊び、吉村家に戻る。1894年(明治27年)、女学校に復職したが、透谷が自殺。さらに兄秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没。この年再び女学校を辞職し、この頃のことは後に『』で描かれる。
1896年(明治29年)、東北学院教師となり、仙台に赴任。1年で辞したが、この間に詩作にふけり、第一詩集・『若菜集』を発表して文壇に登場した。『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集で明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠と並び称された。これら4冊の詩集を出した後、詩作から離れていく。
藤村の詩のいくつかは、歌としても親しまれている。『落梅集』におさめられている一節「椰子の実」は、柳田國男が伊良湖の海岸(愛知県)に椰子の実が流れ着いているのを見たというエピソードを元に書いたもので、1936年(昭和11年)に国民歌謡の一つとして、山田耕筰門下の大中寅二が作曲し、現在に至るまで愛唱されている。また、同年に発表された国民歌謡「朝」(作曲:小田進吾)、1925年(大正14年)に弘田龍太郎によって作曲された歌曲「千曲川旅情の歌」も同じ詩集からのものである。

小諸時代から小説へ

1899年(明治32年)、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。秦冬子と結婚し、翌年には長女・みどりが生れた。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。1905年(明治38年)、小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。ただ、この頃栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に『』で描かれることになる。
1907年(明治40年)に発表した「並木」は、孤蝶や秋骨らとモデル問題を起こす。1908年(明治41年)『』を発表、1910年(明治43年)には「家」を『読売新聞』に連載(翌年『中央公論』に続編を連載)、終了後の8月に妻・冬が四女を出産後死去した。このため次兄・広助の次女・こま子が家事手伝いに来ていたが、1912年(明治45年/大正元年)半ば頃からこま子と事実上の愛人関係になり、やがて彼女は妊娠する。翌年から留学という名目で3年間パリで過ごしたのち、帰国するもこま子との関係が再燃してしまう。1917年(大正6年)に慶應義塾大学文学科講師となる。1918年(大正7年)、『新生』を発表し、この関係を清算しようとした。このためこま子は日本にいられなくなり、台湾に渡った(こま子は後に日本に戻り、1978年6月に東京の病院で85歳で死去)。なお、この頃の作品には『幼きものに』『ふるさと』『幸福』などの童話もある。
1927年昭和2年)、「」を発表。翌年より父正樹をモデルとした歴史小説『夜明け前』の執筆準備を始め、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで『中央公論』にて連載された。この終了を期に著作を整理、編集し、『藤村文庫』にまとめられた。また柳澤健の声掛けを受けて日本ペンクラブの設立にも応じ、初代会長を務めた。1940年(昭和15年)に帝国芸術院会員、1942年(昭和17年)に日本文学報国会名誉会員。
米英との戦争が迫る中、1941年(昭和16年)1月8日に当時の陸軍大臣東条英機が示達した『戦陣訓』の文案作成にも参画した。(戦陣訓の項参照)
1943年(昭和18年)、「東方の門」の連載を始めたが、同年8月22日、脳溢血のため大磯の自宅で死去した。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。

親譲りの憂鬱

島崎藤村は自作でさまざまに、「親譲りの憂鬱」を深刻に表現した。これは、
  1. 父親と長姉が、狂死した。
  2. すぐ上の友弥という兄が、母親の過ちによって生を受けた不幸の人間だった。
  3. 後に姪の島崎こま子と不倫事件を起こしたが、こま子の父である次兄広助の計らいによって隠蔽された。兄の口から、実は父親も妹と関係があったことを明かされた
等の事情による。

年譜

  • 1872年3月25日明治5年2月17日) - 筑摩県の馬籠村[1]に生れる。
  • 1878年(明治11年) - 神坂小学校に入学。
  • 1881年(明治14年) - 兄とともに上京。泰明小学校に通う。
  • 1886年(明治19年)
    • 3月、泰明小学校を卒業。
    • 11月、父・正樹、死去。
  • 1887年(明治20年)9月 - 明治学院普通部本科に入学。
  • 1888年(明治21年)6月 - 木村熊二から受洗。
  • 1891年(明治24年)6月 - 明治学院を卒業。
  • 1892年(明治25年)10月 - 明治女学校の教師となる。
  • 1893年(明治26年)
    • 1月、北村透谷星野天知らと『文学界』を創刊する。
    • 教え子の佐藤輔子を愛したため明治女学校を辞め、キリスト教を棄教する。
  • 1895年(明治28年)
    • 5月、透谷が自殺。
    • 長兄が公文書偽造行使の疑いで下獄。
  • 1896年(明治29年) - 10月、母・縫、死去。
  • 1897年(明治30年) - 8月、処女詩集『若菜集』を出版。
  • 1898年(明治31年) - 4月、東京音楽学校選科入学。
  • 1899年(明治32年)
    • 4月、小諸義塾に赴任。
    • 明治女学校卒業生、函館出身で網問屋の次女・秦冬子と結婚。
  • 1900年(明治33年)
  • 1902年(明治35年) - 3月、次女・孝子、生誕。
  • 1904年(明治37年) - 4月、三女・縫子、生誕。
  • 1905年(明治38年)
    • 4月、上京。
    • 5月、縫子死去。
    • 10月、長男・楠男、生誕。
  • 1906年(明治39年)
    • 3月、『破戒』を自費出版。
    • 4月に孝子、6月にみどりがそれぞれ死去。
  • 1907年(明治40年) - 9月、次男・鶏二、生誕。
  • 1908年(明治41年)
  • 1910年(明治43年)
    • 1月より「」を『読売新聞』に連載。
    • 8月、四女・柳子、生誕。妻・冬子、死去。
  • 1913年大正2年) - 4月、手伝いに来ていた姪・こま子と過ちを犯しこま子が懐妊したため、関係を絶つためにフランスへ渡る。
  • 1916年(大正5年)
    • 7月4日、帰国。こま子との関係が再燃する。
    • 9月、早稲田大学講師に就任。
  • 1918年(大正7年) - 5月より「新生」を『東京朝日新聞』に連載。
  • 1929年昭和4年) - 4月より「夜明け前」を『中央公論』に連載。
  • 1935年(昭和10年) - 日本ペンクラブを結成、初代会長に就任。
  • 1943年(昭和18年)8月22日 - 神奈川県大磯町にて死去、満71歳。戒名は文樹院静屋藤村居士。大磯町地福寺に埋葬された。

主な作品

詩集

  • 若菜集(1897年8月、春陽堂)
  • 一葉舟(1898年6月、春陽堂)
  • 夏草(1898年12月、春陽堂)
  • 落梅集(1901年8月、春陽堂)
  • 藤村詩集(1904年9月、春陽堂)※上記4冊を合本したもの。

小説

  • 旧主人(1902年11月、『明星』)
  • 破戒(1906年3月、自費出版)
  • (1908年10月、自費出版)
  • (1911年11月、自費出版)
  • 桜の実の熟する時(1919年1月、春陽堂)
  • 新生(1919年1、12月、春陽堂)
  • ある女の生涯(1921年7月、『新潮』)
  • (1926年9月、『改造』)
  • 夜明け前(1929年1月、1935年11月、新潮社)

写生文

童話

  • 眼鏡(1913年2月、実業之日本社)
  • ふるさと(1920年12月、実業之日本社)
  • おさなものがたり(1924年1月、研究社)
  • 幸福(1924年5月、弘文館)

記念館

脚注

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  1. ^ a b c 2005年2月12日までは、長野県木曽郡山口村神坂馬籠越境合併により、岐阜県中津川市馬籠となった。 所属県が長野県から岐阜県に変更される事で、藤村の出身県を従来どおり長野県とするか、新たに岐阜県とするか、もしくは新旧両方併記するか、関係者の間で混乱が生じている。しかし藤村本人は、「信州人」意識を強く持っている。

参考文献

関連項目

外部リンク




夜明け前』(よあけまえ)は、島崎藤村によって書かれた長編小説。2部構成。「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる。

目次

概要

日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている[誰?]米国ペリー来航1853年前後から1886年までの幕末明治維新の激動期を、中山道宿場町であった信州木曾谷馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、主人公青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の大作である。
『中央公論』誌上に、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで断続的に掲載され、第1部は1932年1月、第2部は1935年11月新潮社から刊行された。 1934年11月10日 村山知義脚色、久保栄演出「夜明け前」(三幕十場)が新協劇団により築地小劇場で初演される。
1953年に「夜明け前」として、新藤兼人脚色、吉村公三郎監督により映画化されている。

映画

1953年公開。第8回毎日映画コンクール撮影賞を受賞(宮島義勇)。

参考文献

外部リンク



 http://www.voiceblog.jp/aphrodite8516/


http://www.voiceblog.jp/aphrodite8516/1626873.html


 ******『夜明け前』松剛書評
Before the Dawn by Shimazaki Toson.島崎藤村 - Wikipedia
translated by William E. Naff


Before the Dawn (夜明け前 Yoakemae)


  1. 夜明け前 01 第一部上(新字新仮名、作品ID:1504) 
  2. 夜明け前 02 第一部下(新字新仮名、作品ID:1505) 
  3. 夜明け前 03 第二部上(新字新仮名、作品ID:1506) 
  4. 夜明け前 04 第二部下(新字新仮名、作品ID:1507) 
 Tōson Shimazaki (島崎 藤村 Shimazaki Tōson?, 25 March 1872 – 22 August 1943) is the pen-name of Shimazaki Haruki, a Japanese author, active in the Meiji, Taishō and early Shōwa periods of Japan. He began his career as a romantic poet, but went on to establish himself as a major proponent of naturalism in Japanese fiction.

 This is an immense book, nearly 800 densely printed pages which, if you're not careful, will fall apart well before you're finished. Still, its story--of how a single family experienced the downfall of the Tokugawa shogunate and the onset of the Meiji Restoration--is consistently gripping and informative. The Aoyama family, holding key positions in its post-station village of Magome on the Kiso Road, a major Edo-period thoroughfare, gradually declines in status as the tide of history rushes past on the important highway, and the author uses its story, especially that of Aoyama Hanzo (based on Shimazaki's father), to bring to life the tumultuous times it lived through in mid-19th century Japan. The detailed account of village life and political circumstances sometimes becomes tedious, but Shimazaki does make quite clear the nature of the events that shaped the time, and one learns a vast amount from his historical narrative. The characters and dialogue tend toward flatness, and there is some unnecessary repetitiveness, but the epic sweep ensnares the reader and keeps him going, even when he feels as travelers of the time must have felt as they slogged on from village to village along the Kiso. The translator's introduction and glossary go far to helping the reader navigate some of the less familiar names, events, and places. There are a couple of useful maps, but more would have been helpful as the narrative cites so many places and fiefdoms.

About the author (1987)

Poet and novelist Shimazaki Toson was raised on an old mountain road well-traveled in feudal Japan. As a young man, he lived in Tokyo, then retreated to the northern city of Sendai and lived in Paris during World War I. The poetry of Shimazaki's youth was inspired by the English romanticists. Written in a new, freer style, it set off a movement that eventually liberated Japanese verse from the dominance of tanka and haiku. As a novelist, Shimazaki is perhaps best known for The Family (1911), acclaimed as a masterpiece of naturalistic fiction. His complex writing is passionate in its attention to the human dimension of abstract ideological clashes during turbulent historical transitions.

William E. Naff (1929-2005) was founding chair of the Department of Asian Languages and Literatures at the University of Massachusetts, Amherst, where he was professor of Japanese literature. His translation of Tōson's Before the Dawn (Yoake mae) was awarded the 1987 Japan-U.S. Friendship Commission Prize for the Translation of Japanese literature.


夜明け前
新潮文庫 1944
ISBN:4101055084
(原作 1929~1935)
 篠田一士に『二十世紀の十大小説』という快著がある。いまは新潮文庫に入っている。円熟期に達した篠田が満を持して綴ったもので、過剰な自信があふれている。
 十大小説とは、プルーストの『失われた時を求めて』ボルヘスの『伝奇集』カフカの『城』、芽盾の『子夜』、ドス・パソスの『USA』、フォークナーの『アブロム、アブサロム!』、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』ジョイスの『ユリシーズ』、ムジールの『特性のない男』、そして日本から唯一“合格”した藤村の『夜明け前』である。
モームの世界文学十作の選定や利休十作を おもわせるこの選び方にどういう評価をするかはともかく、篠田はここで『夜明け前』を「空前にして絶後の傑作」といった言葉を都合3回もつかって褒めそや した。日本の近代文学はこの作品によって頂点に達し、この作品を読むことが日本の近代文学の本質を知ることになる、まあだいたいはそんな意味である。
 ところが、篠田の筆鋒は他の9つの作品の料理のしかたの切れ味にくらべ、『夜明け前』については空転して説得力をもっていないとしかおもえない。褒めすぎて篠田の説明は何にも迫真していないのだ。
 どんな国のどんな文学作品をも巧妙に調理してみせてきた鬼才篠田にして、こうなのだ。『夜明け前』が大傑作であることは自身で確信し、内心言うを俟たないことなのに、そのことを彷彿とさせる批評の言葉がまにあわない。
 これは日本文芸史上の珍しいことである。漱石鴎外では、まずこんなことはおこらない。露伴鏡花でも難しくはない。むろん横光利一や川端康成ではもっと容易なことである。それなのに『夜明け前』では、ままならない。もてあます。挙げ句は、藤村と距離をとる。
 いや、のちに少しだけふれることにするが、日本人は島崎藤村を褒めるのがヘタなのだ。『破戒』も『春』も『新生』も、自我の確立だとか、社会の亀裂の彫 啄だとか、そんな言葉はいろいろ並ぶものの、ろくな評価になってはいない。先に結論のようなことを言うことになるが、われわれは藤村のように「歴史の本 質」に挑んだ文学をちゃんと受け止めてはこなかったのだ。そういうものをまともに読んでこなかったし、ひょっとすると日本人が「歴史の本質」と格闘できる とも思っていないのだ。
 これはまことに寂しいことであるが、われわれ日本人が藤村をしてその寂しさに追いやったともいえる。
 ともかくもそれくらい『夜明け前』を論じるのは難しい。それでも、『夜明け前』こそはドス・パソスの『USA』やガルシア・マルケスの『百年の孤独』に匹敵するものでもあるはずなのである。まずは、そのことを告げておきたかった。
 さて、『夜明け前』はたしかに聞きしにまさる長編小説である。第1部と第2部に分かれ、ひたすら木曽路の馬籠の周辺にひそむ人々の生きた場面だけを扱っているくせに、幕末維新の約30年の時代の流れとその問題点を、ほぼ全面的に、かつ細部にいたるまで執拗に扱った。
 これを大河小説といってはあたらない。日本近代の最も劇的な変動期を背景に一人の男の生活と心理を描いたと言うくらいなら、ただそれまでのこと、それなら海音寺潮五郎司馬遼太郎だって、そういう長編歴史小説を何本も書いてきた。そこには勝海舟や坂本龍馬の“内面”も描写されてきた。
 しかし藤村がしたことは、そうではなかったのだ。『夜明け前』全編を通して、日本人のすべてに「或るおおもと」を問うたのである。その「或るおおもと」がはたして日本が必要とした「歴史の本質」だったのかどうか、そこを描いたのだ。
 それを一言でいえば、いったい「王政復古」とは何なのかということだ。いま、このことに答えられる日本人はおそらく何人もいないとおもわれるのだが、当時は、そのことをどのように議論してよいかさえ、わからなかった。
 藤村がこれを書いたときのことをいえば、「中央公論」に『夜明け前』の連載が始まったのが昭和4年、藤村が最晩年の56歳のときだった。つまり、いまのぼくの歳だった。
 昭和4年は前の年の金融恐慌につづいて満州某重大事件がおき、翌年には金輸出解禁に踏みきらざるをえなくなった年、すなわち日本がふたたび大混乱に突入していった年である。ニューヨークでは世界大恐慌が始まった。
 そういうときに、藤村は王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのかと、問うた。しかもその王政復古は維新ののちに、歪みきったのだ。ただの西欧主義だったのである。むろんそれが悪いというわけではない。福沢諭吉が主張したように、「脱亜入欧」は国の悲願でもあった。しかしそれを推進した連中は、その直前までは「王政復古」を唱えていたわけである。何が歪んで、大政奉還が文明開化になったのか。
 藤村はそのことを描いてみせた。それはわれわれが見捨ててきたか、それともギブアップしてしまった問題の正面きっての受容というものだった。
 とりあえず、物語を覗いておく。
 主人公は青山半蔵である。父の吉左衛門が馬籠の本陣・問屋・庄屋を兼ねた人だったので、半蔵はこれを譲りうけた。この半蔵が藤村の実父にあたる。『夜明け前』は明治の青年にとっての“父の時代”の物語なのである。
 物語は「木曽路はすべて山の中である」という有名な冒頭に象徴されているように、木曽路の街道の僅かずつの変貌から、木の葉がそよぐように静かに始まっていく。
 その街道の一隅に馬籠の宿がある。馬籠は木曽十一宿のひとつ、美濃路の西側から木曽路に入ると最初の入口になる。そこに本陣・問屋・年寄・伝馬役・定歩 行役・水役・七里役などからなる百軒ばかりの村をつくる家々と、六十軒ばかりの民家と寺や神社とが淡々とではあるが、脈々と生きている。
 そこにあるとき芭蕉の句碑が立った。「送られつ送りつ果ては木曽の龝(あき)」。それは江戸の文化の風がさあっと吹いてきたようなもので、青山半蔵にも心地よい。
 半蔵はそういう江戸の風を学びたいと思っていた青年である。そこで、隣の中津川にいる医者の宮川寛斎に師事して平田派の国学を学ぶことにした。すでに平 田篤胤は死んでいたが、この国のことを馬籠の宿から遠くに想うには、せめて国学の素養やその空気くらいは身につけたかったのである。残念ながら宣長を継承する者は馬籠の近くにはいなかった。
 そこへ「江戸が大変だ」という知らせが入ってくる。嘉永6年のペリー来航のニュースである。さすがに馬籠にも飛脚が走り、西から江戸に向かう者たちの姿が目立ってきた。けれどもニュースは噂以上のものではなく、とんでもなく粉飾されている。
 物語はこの“黒船の噂”が少しずつ正体をあらわすにつれ、すばらしい変化を見せていく。
 半蔵は32歳で父の跡を継いだ。すでに村民の痛ましい日々を目のあたりにし、盗木で追われる下民の姿などにふれて、ひそかな改革の志を抱いていた半蔵は「世直し」の理想をかすかながらも持ちはじめていく。
 だが、そんな改革の意識よりもはるかに早く、時代は江戸を震源地として激変していった。このあたりの事情について、藤村はまことにうまく描写する。安政の大獄、 文久の変、桜田門外の変などを馬籠にいる者が伝え聞く不安のままに、そこで憶測をまじえて国難を案ずる半蔵の心境のままに、描写する。たとえば木曽寄せの 人足730人と伊那の助郷1700人が動いて馬籠を通って江戸表に動くといった木曽路の変化をとらえ、また、会所の定使いや牛方衆の口ぶりやかれらの ちょっとした右往左往を通して、その背後の巨大な変貌を描いていく。
 こうして山深い街道に時代の変質がのしかかってくると、半蔵はふと古代への回帰を思い、王政の古(いにしえ)の再現を追慕するようになる。
 そんなとき、京都にも江戸にも大騒動がもちあがった。皇女和宮が降嫁して、徳川将軍が幕政を奉還するという噂である。半蔵もさすがに落ち着かなくなって くる。しかも和宮は当初の東海道下りではなく、木曽路を下る模様替えとなったため、馬籠はてんやわんやの用意に追われた。
 村民たちは和宮の降嫁道中に沸き立った。加えて、三河や尾張あたりから聞こえてくる「ええじゃないか」の声は、半蔵のいる街道にも騒然と伝わってきた。半蔵は体中に新しい息吹がみなぎっていくのを実感する。
 ここから、ここからというのは第1部の「下」の第9章くらいからということだが、藤村は日本の夜明けを担おうとした人々を、半蔵に届いた動向の範囲で詳細に綴っていく。
 たとえば長州征伐、たとえば岩倉具視の動き、たとえば大西郷の噂、たとえば池田屋の事件。なかで藤村は、半蔵が真木和泉の死や水戸浪士の動きを 見ている目が深くなっていくことをやや克明に描写する。これは読みごたえがある。さすがに国学の解釈にもとづく描写になっている。そして半蔵が“思いがけ ない声”を京都の同門の士から聞いたことを、伝える。「王政の古に復することは建武中興の昔に帰ることであってはならない。神武の創業にまで帰って行くこ とであらねばならない」。
 そして藤村はいそいで書き加えた。「その声こそ彼が聞こうとして待ち侘びていたものだ。多くの国学者が夢みる古代復帰の夢がこんな風にして実現される日 の近づいたばかりでなく、あの本居宣長が書き遺したものにも暗示してある武家時代以前にまでこの復古を求める大勢が押し移りつつあるということは、おそら く討幕の急先鋒をもって任ずる長州の志士達ですら意外とするところであろうと彼には思われた」と。
 かくて「御一新」である。半蔵はこれこそは「草叢の中」から生じた万民の心のなせるわざだろうと感じ、王政復古の夜明けを「一切は神の心であろうでござる」と得心する。
 半蔵が日々の多事に忙殺されながらも国学の真髄に学び、ひそかに思いえがいてきたこの国の姿は、やはり正しかったのだ。
 けれども、世の中に広まっていった「御一新」の現実はそういうものではなかった。半蔵が得心した方向とはことごとく異なった方向へ歩みはじめてしまっていた。それはたんなる西洋化に見えた。半蔵は呆然とする。ここから『夜明け前』のほんとうの思索が深まっていく。
 木曽福島の関所が廃止され、尾州藩が版籍奉還をした。いっさいの封建的なものは雪崩を打つように崩れていった。
 本陣もなくなった。大前・小前による家筋の区別もなくなった。村役人すら廃止された。享保このかた庄屋には玄米5石があてがわれていたが、それも明治5年には打ち切られた。
 それらの変化はまさに半蔵が改革したかったことと同じであるはずだった。しかし、どうも事態はそのようには見えない。そんなおり、父が死ぬ。
 いちばん半蔵がこたえたのは、村人たちが「御一新」による改革をよろこんでいないことだった。その理由が半蔵には分析しきれない。なぜ、日本が王政復古 の方向に変わったのに、村が変わっていくことは受け入れられないことなのか。もしかして、古の日本の姿は、この村人たちが愛してきた暮らしや定めの中に あったのか。半蔵の煩悶は、まさに藤村の疑問であり、藤村の友でもあった柳田国男の疑問でもあった。
 もっと答えにくい難問も待っていた。平田派の門人たちは「御一新」にたいした活動をしなかったばかりか、維新後の社会においてもまったく国づくりにも寄 与できなかったということである。半蔵がはぐくんできた国学思想は、結局、日本の新たな改変にかかわっていないようなのだ。
 それでも半蔵は村民のために“新しい村”をつくろうとした。努力もした。
 しかし、その成果は次々にむなしいものに終わっていく。山林を村民のために使いやすいようにしようとした試みは、山林事件として責任を問われ、戸長免職 にまで追いこまれた。半蔵は自信を失った。そこへもってきて、挙式を前に娘のお粂があろうことに自殺騒ぎをおこした。いよいよ日本の村における近代ならで はの悲劇が始まったのである。
 それは青山半蔵だけにおこった悲劇ではなく、青山家の全体の悲劇を迎えるかどうかという瀬戸際の悲劇でもあった。そして、その悲劇を「家」の単位でくい とめないかぎりは、馬籠という共同体そのものが、木曽路というインフラストラクチャーそのものが瓦解する。民心は半蔵から離れていかざるをえなかった。誰 も近代化の驀進に逆らうことなど不可能だった。
 半蔵はしだいに自分が犠牲になればそれですむのかもしれないという、最後の幻想を抱くことになる。
 半蔵は「一生の旅の峠」にさしかかって、すべての本拠地とおぼしい東京に行くことを決意する。そこで一から考え直し、行動をおこしてみるつもりだったのだ。43歳のときである。
 縁あって教部省に奉職するのだが、ところがそこでも、かつて国の教部活動に尽くしたはずの平田国学の成果はまったく無視されていた。維新直後の神祇局で は、平田鉄胤をはじめ、樹下茂国、六人部雅楽(うた)、福羽美静らの平田国学者が文教にも神社行政にも貢献し、その周囲の平田延胤・権田直助・丸山作楽・ 矢野玄道らが明治の御政道のために尽力したばかりのはずである。
 それがいまやまったく反故にされている。祭政一致など、神仏分離など、ウソだったのである。半蔵はつぶやく、「これでも復古といえるのか!」。
 この教部省奉職において半蔵が無残にも押し付けられた価値観こそは、いよいよ『夜明け前』が全編の体重をかけて王政復古の「歴史の本質」を問うものになっていく。が、半蔵その人は、この問いに堪えられない。そしてついに、とんでもないことをする。
 半蔵は和歌一首を扇子にしたためて、明治大帝の行幸の列に投げ入れたのだ。悶々として詠んだ歌はこのようなものだった、「蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや」。このときの半蔵の心を藤村は次のように綴る。
 その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどの止むに止まれない熱い情が一時に胸にさし迫った。彼は近づい て来る第一の御馬車を御先乗(おさきのり)と心得、前後を顧みるいともまなく群衆の中から進み出て、その御馬車の中に扇子を投進した。
 そして急ぎ引きさがって、額を大地につけ、袴のままにそこにひざまずいた。
 「訴人だ、訴人だ」
 その声は混雑する多勢の中から起こる。何か不敬漢でもあらわれたかのように、互に呼びかわすものがある。その時半蔵は逸早く駆け寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれていた。大衆は争って殆ど圧倒するように彼の方へ押し寄せて来た。
結局、青山半蔵が半生をかけて築き上げた思想は、たった1分程度の、この惨めな行動に結実しただけだった。
 それは難波大助から村中孝平におよぶ青年たちの行動のプロトタイプを、好むと好まざるとにかかわらず先取りしていた。「日本の歴史」を問おうとした者は、藤村が鋭く予告したように、こうして散っていっただけなのである。
 これですべてが終わった。木曽路に戻った半蔵は飛騨山中の水無神社の宮司として「斎の道」(いつきのみち)に鎮んでいくことを選ぶ。
 その4年後、やっと馬籠に戻った半蔵は、なんとか気をとりなおし、村の子弟の教育にあたろうとする。自分の息子も東京に遊学させることにする。この東京 に遊学させられた息子こそ、島崎藤村その人である(このとき以来、藤村は父の世界からも、馬籠からも離れていき、そして『夜明け前』を書くにいたって接近 していったのだが、おそらくはいっときも馬篭の父の悲劇を忘れなかったにちがいない)。
 しかし、馬籠の現実に生きている人々はこのような半蔵をまたしてもよろこばない。半蔵は酒を制限され、隠居を迫られる。そうしたある日、半蔵がついに狂 うのである。明治19年の春の彼岸がすぎたころの夜、半蔵はふらふらと寺に行き、火をつけた。狂ったのだろうか。藤村はこの最も劇的な場面で、よけいな言 葉を費やさない。
 半蔵の放火は仏教への放火だった。我慢に我慢を重ね、仏教に背こうとした放火であった。仏に反逆したのではない。神を崇拝するためでもない。神仏分離すらまっとうできなかった「御一新」の体たらくが我慢できなかったのだった。
 こうして半蔵は長男に縄で縛られ、息子たちや村人が用意した座敷牢に入れられる。幽閉の日々である。わずかに古歌をしたためるひとときがあったものの、 そのまま半蔵は死んでいく。まだ56歳だった。すなわち、藤村がこの作品を書いた歳である。こうして物語は閉じられる。時代は「夜明け前」にすぎなかった のである。
 青山半蔵は島崎正樹である。むろん多少の潤色があるものの、ほぼ実像に近い。
 藤村がそのような父の生涯を描くにあたって、かなり綿密に資料にあたっていたことはよく知られている。馬籠に遺る村民たちの記録や文書もそうとう正確に 再現された。しかし、それだけならこれは鴎外が『阿部一族』や『渋江抽斎』を仕立てた手法とあまり変わらない。けれども藤村は父の生涯を描きながらも、 もっと深い日本の挫折の歴史を凝視した。そして父の挫折をフィルターにして、王政復古を夢みた群像の挫折を、さらには藤村自身の魂の挫折を塗りこめた。
 なぜ、藤村はこの問題を直視する気になったのか。
 藤村はしばしば「親ゆづりの憂鬱」という言葉をつかっている。血のことを言っている。自分の父親が「慨世憂国の士をもって発狂の人となす。豈悲しからずや」と言って死んでいったのだ。これが藤村にのしかからないわけがない。
 それでも『若菜集』や『千曲川のスケッチ』を書くころまでは、父が抱えた巨大な挫折を抱えるにはいたっていないはずである。父が死んだのは藤村が15歳のときで、その後もしばらくは父親がどんな人生を送ったのか、まったく知らないままだった。
 藤村が父の勧めで長兄に連れられ、次兄とともに9歳で上京したのは明治14年のことである。
 泰明小学校に入り、三田英学校から共立学校(いまの開成中学)に移って木村熊二に学んだ。ついで明治学院に進んで、木村から洗礼をうけた。19歳、巌本 善治の「女学雑誌」に翻訳などを載せ、20歳のときに植村正久の麹町一番町教会に移った。ここまではまだキリスト教にめざめた青年である。明治女学校で教鞭をとったとき、教え子の佐藤輔子と恋愛したことに自責の念を感じているのがキリスト者らしい。
 ただし、この時期の日本のキリスト教は内村鑑三がそうであったように、海老名弾正がそうであったように、多分に日本的な色彩の濃いもので、のちに新渡戸稲造がキリスト教と武士道を結びつけたよ うに、どこか神道の精神性と近かった。このことは、青山半蔵が水無神社の宮司になって、それまでの日本の神仏混交にインド的なるものや密教的なるものが入 りこんでいることに不満を洩らすこととも関連して、藤村自身が青年キリスト者であった体験を、その後少しずつ転換させ、父が傾倒した平田国学の無力を語っ ていくときの背景になっているとおもわれる。
 つづいて透谷の自殺に出会ってから、藤村は少しずつ変わる。キリスト者であることに小さな責任も感じはじめる。
 けれどもロマンティックではあれ、まだまだ藤村は情熱に満ちている。仙台の東北学院に単身赴任し、上田敏・田山花袋・柳田国男らを知り、『若菜集』を発表、27歳のときに木村熊二の小諸義塾に赴任したときも『千曲川のスケッチ』を綴って、その抒情に自信をもっていた。
 それが30歳をすぎて『破戒』を構想し、それを自費出版したのちに二人の娘をつづけて失ってからは、しだいに漂泊と韜晦の二つに惹かれていったかに見え る。36歳のときの『春』や、そのあとの芭蕉の遍歴に自身の心を託した『桜の実の熟する時』の岸本捨吉の日々は、そのあらわれである。
 こうして、藤村は自分の生きざまを通して、しだいに父親の対照的な人生や思想を考えるようになっていく。島崎正樹すなわち青山半蔵は、藤村とちがって断 固として馬籠にとどまり、日本の古代の英知を透視して、そして傷ついていった人だった。青年藤村には歴史がなかったが、父には歴史との真剣な格闘があっ た。
 もともと自分を見つめることから始まった作家である藤村は、しだいにこの父の姿の奥に自分が見るべき歴史を輸血する。それが藤村のいう「親ゆづりの憂鬱」をもって自己を「歴史の本質」に投入させるという作業になっていった。
 しかし、たんに歴史と文学を重ねるというだけなら、それこそ露伴や鴎外のほうが多様であったし、小説的だった。藤村が描いた歴史は、あくまで“父の時代”の歴史であり、その奥に父が抱いた王政復古の変転の歴史というものだった。
 このことを藤村ほど真剣に、かつ深刻に、かつ自分の血を通して考えた作家は稀有である。それは、日本の近代に「過誤」があったのではないかという苦渋をともなっている。藤村の指摘はそこにある。そして、そのことをこそ物語に塗りこめた。
 では、過誤ではない歴史とは何なのか。過誤を避ければ苦渋がないかといえば、そんなことはもはや日本の歴史にはおこりそうもなく、たとえば三島由紀夫の自決のようなかたちでしかあらわれないものかもしれないのだが、それでも藤村は結果的ではあるけれど、唯一、『夜明け前』をもってその過誤を問うたのだった。答えがあるわけではない。むしろ青山半蔵の挫折が答えであった。
 いやいや、『夜明け前』には答えがある、という見解もある。このことをいちはやく指摘したのは保田與重郎であった。
 いまは『戴冠詩人の御一人者』(昭和13年)に収録されている「明治の精神」には、次のような意見が述べられている。「鉄幹も子規も漱石も、何かに欠けてゐた。ただ透谷の友藤村が、一人きりで西洋に対抗しうる国民文学の完成を努めたのである」。
 実はこの一文には、篠田一士も気がついていた。篠田はこの保田の一文に気をとられ、自分の評価の言葉を失ったとさえいえる。しかし、さすがに『夜明け前』を国民文学の最高傑作だというふうには言うべきではないだろう。そこは徳富蘇峰とはちがっている。
  国民文学ではないとして、もうひとつ保田の意見のやりすぎがある。それは藤村が西洋に対抗したわけではないということだ。
 ぼくが見るに、藤村にはラファエロ前派もあるし、ギリシア文学もある。藤村がフランスに行ったとき、リモージュで思いに耽るのは、そうしたヨーロッパの 浄化の力というものだった。ただ、藤村は晩年になるにしたがって、それらのヨーロッパを日本の古代的なるものや神道的なるものと直結させるようになって いった。突拍子もないことではない。白井晟一などもそうやった。
 そういうわけだから、『夜明け前』を国民文学とか西洋との対決とはいえないのだが、それでもこの作品は日本の近代文学史上の唯一の実験を果たした作品 だったのである。われわれは半蔵の挫折を通して、日本の意味を知る。もう一度くりかえてしておくが、その“実験”とは、いまなお日本人が避けつづけている 明治維新の意味を問うというものだった。
 どうも「千夜千冊」にしては、長くなってしまったようだ。その理由は、おそらくぼくがこれを綴っているのが20世紀の最後の年末だというためだろう。
 ぼくは20世紀を不満をもって終えようとしている。とくに日本の20世紀について、誰も何にも議論しないですまそうとしていることに、ひどく疑問をもっている。われわれこそ、真の「夜明け前」にいるのではないか、そんな怒りのようなものさえこみあげるのだ。

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