羽子板
羽子板(日語:羽子板)是一種日本傳統的藝術品以及運動器材。其外形為類似於板球的拍子,上有圖案。有些羽子板是純作為繪畫裝飾之用,有些羽子板則可作為「羽根突き」 ...
浅草最後の羽子板職人 父の遺志継ぎ「ここで続ける」
2009年12月30日8時55分
自宅3階の仕事場で羽子板づくりに取り組む原島康嘉さん=東京都台東区西浅草3丁目
東京・浅草で亡き父の後を継ぎ、羽子板をつくり続ける職人がいる。原島康嘉(やすよし)さん、45歳。浅草は古くから江戸の羽子板づくりの中心だった が、戦争や災害などを経て多くの職人が離れ、いま浅草に残っているのは原島さんただ一人になった。職人一筋の父親の遺志を継いだ2代目は、「喜ばれる羽子 板を、この地でつくり続けたい」と意気込む。
新年を控えた今月、原島さんは自宅3階にある仕事場で昼夜を問わず仕事に打ち込んだ。今年1年で作り上げた羽子板は約150本。浅草寺で17~19日に開かれた羽子板市にも出店した。
羽子板は、押し絵をつくる「押し絵師」と面相(顔)を描く「面相師」による合作だ。面相師が歌舞伎の名場面を下図にして、押し絵師がボール紙を型 取る。その後、パーツ分けされた型に綿を入れ、あでやかな布を張り、パーツを組み合わせて、最後に描いた顔を組んで完成させる。
もともとは、押し絵師として50年以上の職人歴をもつ原島さんの父、秀夫さんが切り盛りしてきた。15年ほど前までは他の職人が描いた面相を使っ ていたが、後継者不足もあって面相の入手が困難に。そこで、原島さんが面相師として秀夫さんの仕事を手伝い始め、親子二人三脚で羽子板制作を続けてきた。
そんな中、秀夫さんは2003年4月に69歳で急逝し、羽子板店は存続の危機に。その時、原島さんの頭には、多くの職人が被害を受けた1995年の羽子板市の火災のことがよぎった。
「職人の意地がある。ここでやめるわけにはいかない」。秀夫さんの当時の言葉だ。
火事を機に廃業する職人もいたが、秀夫さんはゼロからやり直して次の年には出店にこぎ着けた。「おやじのことを思うと、何とか羽子板づくりは続けなければと思った」
ただ、面相師としてキャリアを重ねた原島さんも、押し絵師の経験はない。子どもの頃から見てきた父親の仕事ぶりを思い返し、見よう見まねの手探りで取り かかった。試行錯誤の末、04年の正月に自作の羽子板を完成させた。「行き詰まったとき、おやじに相談するつもりで考えていると、まるで後ろから声が聞こ えるようにふっとアイデアが浮かんだ。見守ってくれているんでしょうね」
喜んでくれる人がいる限り、つくり続けたい。それが原島さんの思いだ。(杉崎慎弥)
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