2013年6月30日 星期日

いろはにほへと







いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせすん

いろは歌、貴族の「学習帳」 ひらがなほぼ全文 鎌倉期

「いろは歌」が墨書された土器=27日、京都市上京区、戸村登撮影


いろは歌の書かれた墨書の読み方


発掘現場の地図





 【筒井次郎】京都市中京区の高級貴族の邸宅跡で、「いろは歌」のほぼ全文がひらがなで墨書された土器(1200年前後、鎌倉初頭ごろ)が見つかった。市埋蔵文化財研究所が27日発表した。ひらがなでほぼ全文が書かれた史料では最も古い。当時は紙が貴重品で、ひらがなの練習で書いたとみられる。

 研究所が過去の出土品を調べ直す中で、1983年に二条城東 側の「堀河院(ほりかわいん)」跡の井戸跡から出土した土師器(はじき)の小皿(直径9センチ、高さ1・5センチ)に書かれているのが判明。小皿は破片9 枚をつなぎ合わせたもので裏面に全47文字のうち、薄い字も含め43文字が判読できた。4文字は欠けた部分にあったとみている。

 文字は8行分あり、1行目は歌の最後の「ゑひもせす」。2行目から「いろはにほへと」と始まり、一番左の7、8行目が「あさき□めみし」(□は欠損部。 「ゆ」と推測)。「あさきゆめみし」まで書いて余白がなくなったため、右の余白に「ゑひもせす」と続けたとみられる。本来「わかよたれそ」と書くべきとこ ろが「それ」と逆になり、バランスの崩れた文字もあった。




在五十音順以外偶爾會使用伊呂波順(いろは順,iroha-jun)。其來自於日本平安時代的《伊呂波歌》。這首詩歌最早見於1079年,是一種字母歌的型式,將每個音節各自使用一次:


片假名

(除去濁點)

漢字
與假名

翻譯



イロハニホヘト


チリヌルヲ


ワカヨタレソ


ツネナラム


ウヰノオクヤマ


ケフコエテ


アサキユメミシ


ヱヒモセス



色は匂へど


散りぬるを


我が世誰ぞ


常ならむ


有為の奥山


今日越えて


浅き夢見じ


酔ひもせず




花朵艷麗終散落



誰人世間能長久



今日攀越高山嶺



醉生夢死不再有








いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせすん

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず






平安時代末期に流行。
『涅槃経(ねはんきょう)』の
「諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽」を表すと言われる。



色は匂へど 散りぬるを
香りよく色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう。
諸行無常(しょぎょうむじょう)

我が世誰そ 常ならむ
この世に生きる私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない。
是生滅法(ぜしょうめっぽう)

有為の奥山 今日越えて
この無常の、有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて
生滅滅己(しょうめつめつい)

浅き夢見じ 酔ひもせず
悟りの世界に至れば、もはや儚い夢を見ることなく、現象の仮相の世界に酔いしれることもない安らかな心境である。
寂滅為楽(じゃくめついらく)








「今様」という形式(七五を四回繰り返す)を守り、その上、全ての仮名を1回ずつ使うという制約のもとで、これだけの意味のある歌が作られたことは、奇跡と呼んでも過言ではないでしょう。そう思いませんか?

いろはうたの他にも、同じ条件で書かれた詩があります。

あめつちうた(平安時代初期)

あめつちほしそら(天地星空)

やまかはみねたに(山川峰谷)

くもきりむろこけ(雲霧室苔)

ひといぬうへすゑ(人犬上末)

ゆわさるおふせよ(硫黄猿生ふせよ)

えのえをなれゐて(榎の枝を馴れ居て)




あめつちのうた(本居宣長作)

あめふれは ゐせきをこゆる(雨降れば 井堰を越ゆる)

みつわけて やすくもろひと(水分けて安く諸)

おりたちうゑし むらなへ(下り立ち植ゑし 群苗)

そのいねよ まほにさかえぬ(その稲よ 真穂に栄えぬ)




ひふみうた

(うたとして、祝詞として、祓詞として読む場合、それぞれに、区切る箇所が違う。以下は祝詞の場合の三五七区切り)

ひふみ よいむなや こともちろらね

しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか

うおえ にさりへて のますあせゑほ

れーけー




今回色々調べてみまして、この「ひふみうた」に興味を持ちました。
冒頭の「ひふみよいむなやこともち」は「一二三四五六七八九十百千」のこと。
この最初の十文字が、日(火という説も)、風、水、世、井草、虫、岩魚、鳥、獣、人を表していて、暗に進化の過程を表しているのだとか、いやいや実は最初 の十文字を古代ヘブライ語で読むと、天照大神を岩戸から呼び出すことばなのだとか、数々の興味深い事例に遭遇しました。ああ、日本語は、奥が深くて楽し い。
上記3つのうたの他にも、一文字ずつ使った歌が十以上ありました。





にほんごであそぼふぁんさいと


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東京・銀座の顔、松坂屋、88年の歴史に幕




〔編譯林翠儀/綜合報導〕1924年開幕、擁有88年歷史的銀座老牌百貨公司「松坂屋」,6月30 日晚間暫時落幕。百貨公司所在地將改建為地上13層、地下6層的複合式商業大樓,新的松坂屋將使用其中的6個樓層,預定2016年8月重新開幕。松坂屋百 貨起源於名古屋的和服商,全盛期除日本各大都市外,還曾在香港及巴黎設有分店,其中1924年開幕的銀座松坂屋,創造諸多「日本第一」的紀錄,例如是日本 第一家顧客可直接穿鞋進店,也是日本首家店員穿洋裝招呼客人的百貨公司。
松坂屋曾是日本時尚的代名詞,也是銀座貴婦的象徵,據說因為商品標價數尾的「0」太多了,讓人經常少看一個「0」,有些人為了擺闊,還會故意去松坂屋買個購物袋提在手上逛大街。
曾擁有絕世風華的老牌百貨公司現在因為建築物老舊,再加上廉價成衣量販店的競爭而沒落,去年業績102億日圓,不到1990年的5分之1。改建後,松坂屋的樓地板面積將擴大為目前的2倍。30日當天有上千名民眾排隊等著開店,陪著這家老牌百貨公司走完最後一程。



銀座の顔、30日また消える 松坂屋、88年の歴史に幕

写真:30日に閉館する松坂屋銀座店=中央区銀座6丁目拡大30日に閉館する松坂屋銀座店=中央区銀座6丁目
写真:1924年の開店当時=松坂屋銀座店提供拡大1924年の開店当時=松坂屋銀座店提供
写真:1960年前後の「お好み食堂」。好きな食事を選んで食べられる。写真は、おでんを食べる女性=松坂屋銀座店提供拡大1960年前後の「お好み食堂」。好きな食事を選んで食べられる。写真は、おでんを食べる女性=松坂屋銀座店提供

 【成沢解語】1924年に銀座初の百貨店として開業した松坂屋銀座店が30日、再開発に伴い閉店する。常に時代を先取りし、街の象徴として親しまれた88年だった。
 閉店を知り、埼玉県川口市の 金子藤雄さん(69)は27日、10年ぶりに訪れた。子どもの頃、家族と食堂でアイスクリームを食べた。あまりのおいしさに皿までなめ、父親に怒られたこ とを覚えている。「お袋も美容院に行って、よそ行きの格好して。子どもにとっては今のディズニーランドと一緒。興奮したよ」
■初のエレベーターガール、屋上に動物園も
 松坂屋が まとめた80周年記念誌によると、開店は大正末期の24年12月。ようやく洋装がはやりだしたころだ。百貨店でも履物を脱ぐのが当たり前だったが、初めて 土足で入れるようにした。社内でも賛否は割れたが、西洋化の象徴として他の百貨店にも広がったという。翌年5月に松屋、30年4月に三越が開業し、銀座は にぎやかになっていく。
 建物は地上8階、地下1階建てで、周辺では最も高かった。「エレベーターガール」も上野店と並んで29年に日本で初めて導入した。屋上には太平洋戦争が激化するまで、猛獣を集めた動物園もあった。夜更けには、ライオンの遠ぼえが響き渡ったらしい。





東京・銀座初の百貨店、88年の歴史に幕 松坂屋

写真:閉店を惜しむ客らを前に一礼する松坂屋銀座店の店長ら(中央左)=30日午後8時24分、中央区銀座6丁目、小川智撮影拡大閉店を惜しむ客らを前に一礼する松坂屋銀座店の店長ら(中央左)=30日午後8時24分、中央区銀座6丁目、小川智撮影
写真:閉店を惜しむ客らを前に一礼する松坂屋銀座店の店員ら=30日午後8時13分、中央区銀座6丁目、小川智撮影拡大閉店を惜しむ客らを前に一礼する松坂屋銀座店の店員ら=30日午後8時13分、中央区銀座6丁目、小川智撮影
写真:閉店後の式典でクラッカーを放つ松坂屋銀座店の従業員ら=30日午後8時22分、中央区銀座6丁目、小川智撮影拡大閉店後の式典でクラッカーを放つ松坂屋銀座店の従業員ら=30日午後8時22分、中央区銀座6丁目、小川智撮影


 東京・銀座初の百貨店、松坂屋銀座店が30日夜、再開発に伴い閉店した。店先で閉店式があり、従業員13人が整列。名残惜しそうに見守る客に頭を下げ、88年の歴史に幕を下ろした。 銀座の顔、また消える

 店は1924(大正13)年12月に開店。百貨店として初めて土足で入れるようにした。29(昭和4)年には上野店とともに初めて「エレベーターガール」も採用。屋上には猛獣を集めた動物園も設けていた。
 店の跡地には2016年に新施設ができる予定。



2013年6月28日 星期五

『夜明け前』島崎藤村



島崎藤村

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島崎 藤村
(しまざき とうそん)
Shimazaki Toson2.jpg
誕生 1872年3月25日
筑摩県第八大区五小区馬籠村(現・岐阜県中津川市
死没 1943年8月22日(満71歳没)
職業 詩人
小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 明治学院普通部本科
活動期間 1897年 - 1943年
ジャンル
小説
文学活動 ロマン主義
自然主義文学
代表作 若菜集』(1897年、詩集)
破戒』(1906年)
』(1908年)
』(1911年)
新生』(1919年)
夜明け前』(1935年)
主な受賞歴 朝日文化賞(1936年)
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島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日明治5年2月17日)- 1943年昭和18年)8月22日)は、日本詩人小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾中山道馬籠[1](現在の岐阜県中津川市)生れ。
文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。

目次

生涯

生い立ち

1872年3月25日明治5年2月17日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村[1]長野県を経て現在の岐阜県中津川市)に生まれた。父は正樹、母は縫。四男だった。生家は代々、本陣庄屋問屋をつとめる地方名家で、祖は三浦半島の津久井の出。父の正樹は17代当主で国学者だった。
1878年(明治11年)、神坂学校に入り、父から『孝経』や『論語』を学ぶ。1881年(明治14年)に上京、泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父・武尾用拙に、『詩経』などを学んだ。さらに三田英学校(旧・慶應義塾分校、現・錦城学園高等学校の前身)、共立学校(現・開成高校の前身)など当時の進学予備校で学び、明治学院普通部本科(明治学院高校の前身)入学。在学中は馬場孤蝶戸川秋骨と交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉西行などの古典書物も読み漁った。明治学院普通部本科の第一期卒業生で、校歌も作詞している。この間、1886年(明治19年)に父正樹が郷里にて牢死。正樹は『夜明け前』の主人公・青山半蔵のモデルで、藤村に与えた文学的影響は多大だった。

『文学界』と浪漫派詩人

卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた北村透谷星野天知の雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職する。その後関西に遊び、吉村家に戻る。1894年(明治27年)、女学校に復職したが、透谷が自殺。さらに兄秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没。この年再び女学校を辞職し、この頃のことは後に『』で描かれる。
1896年(明治29年)、東北学院教師となり、仙台に赴任。1年で辞したが、この間に詩作にふけり、第一詩集・『若菜集』を発表して文壇に登場した。『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集で明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠と並び称された。これら4冊の詩集を出した後、詩作から離れていく。
藤村の詩のいくつかは、歌としても親しまれている。『落梅集』におさめられている一節「椰子の実」は、柳田國男が伊良湖の海岸(愛知県)に椰子の実が流れ着いているのを見たというエピソードを元に書いたもので、1936年(昭和11年)に国民歌謡の一つとして、山田耕筰門下の大中寅二が作曲し、現在に至るまで愛唱されている。また、同年に発表された国民歌謡「朝」(作曲:小田進吾)、1925年(大正14年)に弘田龍太郎によって作曲された歌曲「千曲川旅情の歌」も同じ詩集からのものである。

小諸時代から小説へ

1899年(明治32年)、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。秦冬子と結婚し、翌年には長女・みどりが生れた。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。1905年(明治38年)、小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。ただ、この頃栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に『』で描かれることになる。
1907年(明治40年)に発表した「並木」は、孤蝶や秋骨らとモデル問題を起こす。1908年(明治41年)『』を発表、1910年(明治43年)には「家」を『読売新聞』に連載(翌年『中央公論』に続編を連載)、終了後の8月に妻・冬が四女を出産後死去した。このため次兄・広助の次女・こま子が家事手伝いに来ていたが、1912年(明治45年/大正元年)半ば頃からこま子と事実上の愛人関係になり、やがて彼女は妊娠する。翌年から留学という名目で3年間パリで過ごしたのち、帰国するもこま子との関係が再燃してしまう。1917年(大正6年)に慶應義塾大学文学科講師となる。1918年(大正7年)、『新生』を発表し、この関係を清算しようとした。このためこま子は日本にいられなくなり、台湾に渡った(こま子は後に日本に戻り、1978年6月に東京の病院で85歳で死去)。なお、この頃の作品には『幼きものに』『ふるさと』『幸福』などの童話もある。
1927年昭和2年)、「」を発表。翌年より父正樹をモデルとした歴史小説『夜明け前』の執筆準備を始め、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで『中央公論』にて連載された。この終了を期に著作を整理、編集し、『藤村文庫』にまとめられた。また柳澤健の声掛けを受けて日本ペンクラブの設立にも応じ、初代会長を務めた。1940年(昭和15年)に帝国芸術院会員、1942年(昭和17年)に日本文学報国会名誉会員。
米英との戦争が迫る中、1941年(昭和16年)1月8日に当時の陸軍大臣東条英機が示達した『戦陣訓』の文案作成にも参画した。(戦陣訓の項参照)
1943年(昭和18年)、「東方の門」の連載を始めたが、同年8月22日、脳溢血のため大磯の自宅で死去した。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。

親譲りの憂鬱

島崎藤村は自作でさまざまに、「親譲りの憂鬱」を深刻に表現した。これは、
  1. 父親と長姉が、狂死した。
  2. すぐ上の友弥という兄が、母親の過ちによって生を受けた不幸の人間だった。
  3. 後に姪の島崎こま子と不倫事件を起こしたが、こま子の父である次兄広助の計らいによって隠蔽された。兄の口から、実は父親も妹と関係があったことを明かされた
等の事情による。

年譜

  • 1872年3月25日明治5年2月17日) - 筑摩県の馬籠村[1]に生れる。
  • 1878年(明治11年) - 神坂小学校に入学。
  • 1881年(明治14年) - 兄とともに上京。泰明小学校に通う。
  • 1886年(明治19年)
    • 3月、泰明小学校を卒業。
    • 11月、父・正樹、死去。
  • 1887年(明治20年)9月 - 明治学院普通部本科に入学。
  • 1888年(明治21年)6月 - 木村熊二から受洗。
  • 1891年(明治24年)6月 - 明治学院を卒業。
  • 1892年(明治25年)10月 - 明治女学校の教師となる。
  • 1893年(明治26年)
    • 1月、北村透谷星野天知らと『文学界』を創刊する。
    • 教え子の佐藤輔子を愛したため明治女学校を辞め、キリスト教を棄教する。
  • 1895年(明治28年)
    • 5月、透谷が自殺。
    • 長兄が公文書偽造行使の疑いで下獄。
  • 1896年(明治29年) - 10月、母・縫、死去。
  • 1897年(明治30年) - 8月、処女詩集『若菜集』を出版。
  • 1898年(明治31年) - 4月、東京音楽学校選科入学。
  • 1899年(明治32年)
    • 4月、小諸義塾に赴任。
    • 明治女学校卒業生、函館出身で網問屋の次女・秦冬子と結婚。
  • 1900年(明治33年)
  • 1902年(明治35年) - 3月、次女・孝子、生誕。
  • 1904年(明治37年) - 4月、三女・縫子、生誕。
  • 1905年(明治38年)
    • 4月、上京。
    • 5月、縫子死去。
    • 10月、長男・楠男、生誕。
  • 1906年(明治39年)
    • 3月、『破戒』を自費出版。
    • 4月に孝子、6月にみどりがそれぞれ死去。
  • 1907年(明治40年) - 9月、次男・鶏二、生誕。
  • 1908年(明治41年)
  • 1910年(明治43年)
    • 1月より「」を『読売新聞』に連載。
    • 8月、四女・柳子、生誕。妻・冬子、死去。
  • 1913年大正2年) - 4月、手伝いに来ていた姪・こま子と過ちを犯しこま子が懐妊したため、関係を絶つためにフランスへ渡る。
  • 1916年(大正5年)
    • 7月4日、帰国。こま子との関係が再燃する。
    • 9月、早稲田大学講師に就任。
  • 1918年(大正7年) - 5月より「新生」を『東京朝日新聞』に連載。
  • 1929年昭和4年) - 4月より「夜明け前」を『中央公論』に連載。
  • 1935年(昭和10年) - 日本ペンクラブを結成、初代会長に就任。
  • 1943年(昭和18年)8月22日 - 神奈川県大磯町にて死去、満71歳。戒名は文樹院静屋藤村居士。大磯町地福寺に埋葬された。

主な作品

詩集

  • 若菜集(1897年8月、春陽堂)
  • 一葉舟(1898年6月、春陽堂)
  • 夏草(1898年12月、春陽堂)
  • 落梅集(1901年8月、春陽堂)
  • 藤村詩集(1904年9月、春陽堂)※上記4冊を合本したもの。

小説

  • 旧主人(1902年11月、『明星』)
  • 破戒(1906年3月、自費出版)
  • (1908年10月、自費出版)
  • (1911年11月、自費出版)
  • 桜の実の熟する時(1919年1月、春陽堂)
  • 新生(1919年1、12月、春陽堂)
  • ある女の生涯(1921年7月、『新潮』)
  • (1926年9月、『改造』)
  • 夜明け前(1929年1月、1935年11月、新潮社)

写生文

童話

  • 眼鏡(1913年2月、実業之日本社)
  • ふるさと(1920年12月、実業之日本社)
  • おさなものがたり(1924年1月、研究社)
  • 幸福(1924年5月、弘文館)

記念館

脚注

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  1. ^ a b c 2005年2月12日までは、長野県木曽郡山口村神坂馬籠越境合併により、岐阜県中津川市馬籠となった。 所属県が長野県から岐阜県に変更される事で、藤村の出身県を従来どおり長野県とするか、新たに岐阜県とするか、もしくは新旧両方併記するか、関係者の間で混乱が生じている。しかし藤村本人は、「信州人」意識を強く持っている。

参考文献

関連項目

外部リンク




夜明け前』(よあけまえ)は、島崎藤村によって書かれた長編小説。2部構成。「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる。

目次

概要

日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている[誰?]米国ペリー来航1853年前後から1886年までの幕末明治維新の激動期を、中山道宿場町であった信州木曾谷馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、主人公青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の大作である。
『中央公論』誌上に、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで断続的に掲載され、第1部は1932年1月、第2部は1935年11月新潮社から刊行された。 1934年11月10日 村山知義脚色、久保栄演出「夜明け前」(三幕十場)が新協劇団により築地小劇場で初演される。
1953年に「夜明け前」として、新藤兼人脚色、吉村公三郎監督により映画化されている。

映画

1953年公開。第8回毎日映画コンクール撮影賞を受賞(宮島義勇)。

参考文献

外部リンク



 http://www.voiceblog.jp/aphrodite8516/


http://www.voiceblog.jp/aphrodite8516/1626873.html


 ******『夜明け前』松剛書評
Before the Dawn by Shimazaki Toson.島崎藤村 - Wikipedia
translated by William E. Naff


Before the Dawn (夜明け前 Yoakemae)


  1. 夜明け前 01 第一部上(新字新仮名、作品ID:1504) 
  2. 夜明け前 02 第一部下(新字新仮名、作品ID:1505) 
  3. 夜明け前 03 第二部上(新字新仮名、作品ID:1506) 
  4. 夜明け前 04 第二部下(新字新仮名、作品ID:1507) 
 Tōson Shimazaki (島崎 藤村 Shimazaki Tōson?, 25 March 1872 – 22 August 1943) is the pen-name of Shimazaki Haruki, a Japanese author, active in the Meiji, Taishō and early Shōwa periods of Japan. He began his career as a romantic poet, but went on to establish himself as a major proponent of naturalism in Japanese fiction.

 This is an immense book, nearly 800 densely printed pages which, if you're not careful, will fall apart well before you're finished. Still, its story--of how a single family experienced the downfall of the Tokugawa shogunate and the onset of the Meiji Restoration--is consistently gripping and informative. The Aoyama family, holding key positions in its post-station village of Magome on the Kiso Road, a major Edo-period thoroughfare, gradually declines in status as the tide of history rushes past on the important highway, and the author uses its story, especially that of Aoyama Hanzo (based on Shimazaki's father), to bring to life the tumultuous times it lived through in mid-19th century Japan. The detailed account of village life and political circumstances sometimes becomes tedious, but Shimazaki does make quite clear the nature of the events that shaped the time, and one learns a vast amount from his historical narrative. The characters and dialogue tend toward flatness, and there is some unnecessary repetitiveness, but the epic sweep ensnares the reader and keeps him going, even when he feels as travelers of the time must have felt as they slogged on from village to village along the Kiso. The translator's introduction and glossary go far to helping the reader navigate some of the less familiar names, events, and places. There are a couple of useful maps, but more would have been helpful as the narrative cites so many places and fiefdoms.

About the author (1987)

Poet and novelist Shimazaki Toson was raised on an old mountain road well-traveled in feudal Japan. As a young man, he lived in Tokyo, then retreated to the northern city of Sendai and lived in Paris during World War I. The poetry of Shimazaki's youth was inspired by the English romanticists. Written in a new, freer style, it set off a movement that eventually liberated Japanese verse from the dominance of tanka and haiku. As a novelist, Shimazaki is perhaps best known for The Family (1911), acclaimed as a masterpiece of naturalistic fiction. His complex writing is passionate in its attention to the human dimension of abstract ideological clashes during turbulent historical transitions.

William E. Naff (1929-2005) was founding chair of the Department of Asian Languages and Literatures at the University of Massachusetts, Amherst, where he was professor of Japanese literature. His translation of Tōson's Before the Dawn (Yoake mae) was awarded the 1987 Japan-U.S. Friendship Commission Prize for the Translation of Japanese literature.


夜明け前
新潮文庫 1944
ISBN:4101055084
(原作 1929~1935)
 篠田一士に『二十世紀の十大小説』という快著がある。いまは新潮文庫に入っている。円熟期に達した篠田が満を持して綴ったもので、過剰な自信があふれている。
 十大小説とは、プルーストの『失われた時を求めて』ボルヘスの『伝奇集』カフカの『城』、芽盾の『子夜』、ドス・パソスの『USA』、フォークナーの『アブロム、アブサロム!』、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』ジョイスの『ユリシーズ』、ムジールの『特性のない男』、そして日本から唯一“合格”した藤村の『夜明け前』である。
モームの世界文学十作の選定や利休十作を おもわせるこの選び方にどういう評価をするかはともかく、篠田はここで『夜明け前』を「空前にして絶後の傑作」といった言葉を都合3回もつかって褒めそや した。日本の近代文学はこの作品によって頂点に達し、この作品を読むことが日本の近代文学の本質を知ることになる、まあだいたいはそんな意味である。
 ところが、篠田の筆鋒は他の9つの作品の料理のしかたの切れ味にくらべ、『夜明け前』については空転して説得力をもっていないとしかおもえない。褒めすぎて篠田の説明は何にも迫真していないのだ。
 どんな国のどんな文学作品をも巧妙に調理してみせてきた鬼才篠田にして、こうなのだ。『夜明け前』が大傑作であることは自身で確信し、内心言うを俟たないことなのに、そのことを彷彿とさせる批評の言葉がまにあわない。
 これは日本文芸史上の珍しいことである。漱石鴎外では、まずこんなことはおこらない。露伴鏡花でも難しくはない。むろん横光利一や川端康成ではもっと容易なことである。それなのに『夜明け前』では、ままならない。もてあます。挙げ句は、藤村と距離をとる。
 いや、のちに少しだけふれることにするが、日本人は島崎藤村を褒めるのがヘタなのだ。『破戒』も『春』も『新生』も、自我の確立だとか、社会の亀裂の彫 啄だとか、そんな言葉はいろいろ並ぶものの、ろくな評価になってはいない。先に結論のようなことを言うことになるが、われわれは藤村のように「歴史の本 質」に挑んだ文学をちゃんと受け止めてはこなかったのだ。そういうものをまともに読んでこなかったし、ひょっとすると日本人が「歴史の本質」と格闘できる とも思っていないのだ。
 これはまことに寂しいことであるが、われわれ日本人が藤村をしてその寂しさに追いやったともいえる。
 ともかくもそれくらい『夜明け前』を論じるのは難しい。それでも、『夜明け前』こそはドス・パソスの『USA』やガルシア・マルケスの『百年の孤独』に匹敵するものでもあるはずなのである。まずは、そのことを告げておきたかった。
 さて、『夜明け前』はたしかに聞きしにまさる長編小説である。第1部と第2部に分かれ、ひたすら木曽路の馬籠の周辺にひそむ人々の生きた場面だけを扱っているくせに、幕末維新の約30年の時代の流れとその問題点を、ほぼ全面的に、かつ細部にいたるまで執拗に扱った。
 これを大河小説といってはあたらない。日本近代の最も劇的な変動期を背景に一人の男の生活と心理を描いたと言うくらいなら、ただそれまでのこと、それなら海音寺潮五郎司馬遼太郎だって、そういう長編歴史小説を何本も書いてきた。そこには勝海舟や坂本龍馬の“内面”も描写されてきた。
 しかし藤村がしたことは、そうではなかったのだ。『夜明け前』全編を通して、日本人のすべてに「或るおおもと」を問うたのである。その「或るおおもと」がはたして日本が必要とした「歴史の本質」だったのかどうか、そこを描いたのだ。
 それを一言でいえば、いったい「王政復古」とは何なのかということだ。いま、このことに答えられる日本人はおそらく何人もいないとおもわれるのだが、当時は、そのことをどのように議論してよいかさえ、わからなかった。
 藤村がこれを書いたときのことをいえば、「中央公論」に『夜明け前』の連載が始まったのが昭和4年、藤村が最晩年の56歳のときだった。つまり、いまのぼくの歳だった。
 昭和4年は前の年の金融恐慌につづいて満州某重大事件がおき、翌年には金輸出解禁に踏みきらざるをえなくなった年、すなわち日本がふたたび大混乱に突入していった年である。ニューヨークでは世界大恐慌が始まった。
 そういうときに、藤村は王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのかと、問うた。しかもその王政復古は維新ののちに、歪みきったのだ。ただの西欧主義だったのである。むろんそれが悪いというわけではない。福沢諭吉が主張したように、「脱亜入欧」は国の悲願でもあった。しかしそれを推進した連中は、その直前までは「王政復古」を唱えていたわけである。何が歪んで、大政奉還が文明開化になったのか。
 藤村はそのことを描いてみせた。それはわれわれが見捨ててきたか、それともギブアップしてしまった問題の正面きっての受容というものだった。
 とりあえず、物語を覗いておく。
 主人公は青山半蔵である。父の吉左衛門が馬籠の本陣・問屋・庄屋を兼ねた人だったので、半蔵はこれを譲りうけた。この半蔵が藤村の実父にあたる。『夜明け前』は明治の青年にとっての“父の時代”の物語なのである。
 物語は「木曽路はすべて山の中である」という有名な冒頭に象徴されているように、木曽路の街道の僅かずつの変貌から、木の葉がそよぐように静かに始まっていく。
 その街道の一隅に馬籠の宿がある。馬籠は木曽十一宿のひとつ、美濃路の西側から木曽路に入ると最初の入口になる。そこに本陣・問屋・年寄・伝馬役・定歩 行役・水役・七里役などからなる百軒ばかりの村をつくる家々と、六十軒ばかりの民家と寺や神社とが淡々とではあるが、脈々と生きている。
 そこにあるとき芭蕉の句碑が立った。「送られつ送りつ果ては木曽の龝(あき)」。それは江戸の文化の風がさあっと吹いてきたようなもので、青山半蔵にも心地よい。
 半蔵はそういう江戸の風を学びたいと思っていた青年である。そこで、隣の中津川にいる医者の宮川寛斎に師事して平田派の国学を学ぶことにした。すでに平 田篤胤は死んでいたが、この国のことを馬籠の宿から遠くに想うには、せめて国学の素養やその空気くらいは身につけたかったのである。残念ながら宣長を継承する者は馬籠の近くにはいなかった。
 そこへ「江戸が大変だ」という知らせが入ってくる。嘉永6年のペリー来航のニュースである。さすがに馬籠にも飛脚が走り、西から江戸に向かう者たちの姿が目立ってきた。けれどもニュースは噂以上のものではなく、とんでもなく粉飾されている。
 物語はこの“黒船の噂”が少しずつ正体をあらわすにつれ、すばらしい変化を見せていく。
 半蔵は32歳で父の跡を継いだ。すでに村民の痛ましい日々を目のあたりにし、盗木で追われる下民の姿などにふれて、ひそかな改革の志を抱いていた半蔵は「世直し」の理想をかすかながらも持ちはじめていく。
 だが、そんな改革の意識よりもはるかに早く、時代は江戸を震源地として激変していった。このあたりの事情について、藤村はまことにうまく描写する。安政の大獄、 文久の変、桜田門外の変などを馬籠にいる者が伝え聞く不安のままに、そこで憶測をまじえて国難を案ずる半蔵の心境のままに、描写する。たとえば木曽寄せの 人足730人と伊那の助郷1700人が動いて馬籠を通って江戸表に動くといった木曽路の変化をとらえ、また、会所の定使いや牛方衆の口ぶりやかれらの ちょっとした右往左往を通して、その背後の巨大な変貌を描いていく。
 こうして山深い街道に時代の変質がのしかかってくると、半蔵はふと古代への回帰を思い、王政の古(いにしえ)の再現を追慕するようになる。
 そんなとき、京都にも江戸にも大騒動がもちあがった。皇女和宮が降嫁して、徳川将軍が幕政を奉還するという噂である。半蔵もさすがに落ち着かなくなって くる。しかも和宮は当初の東海道下りではなく、木曽路を下る模様替えとなったため、馬籠はてんやわんやの用意に追われた。
 村民たちは和宮の降嫁道中に沸き立った。加えて、三河や尾張あたりから聞こえてくる「ええじゃないか」の声は、半蔵のいる街道にも騒然と伝わってきた。半蔵は体中に新しい息吹がみなぎっていくのを実感する。
 ここから、ここからというのは第1部の「下」の第9章くらいからということだが、藤村は日本の夜明けを担おうとした人々を、半蔵に届いた動向の範囲で詳細に綴っていく。
 たとえば長州征伐、たとえば岩倉具視の動き、たとえば大西郷の噂、たとえば池田屋の事件。なかで藤村は、半蔵が真木和泉の死や水戸浪士の動きを 見ている目が深くなっていくことをやや克明に描写する。これは読みごたえがある。さすがに国学の解釈にもとづく描写になっている。そして半蔵が“思いがけ ない声”を京都の同門の士から聞いたことを、伝える。「王政の古に復することは建武中興の昔に帰ることであってはならない。神武の創業にまで帰って行くこ とであらねばならない」。
 そして藤村はいそいで書き加えた。「その声こそ彼が聞こうとして待ち侘びていたものだ。多くの国学者が夢みる古代復帰の夢がこんな風にして実現される日 の近づいたばかりでなく、あの本居宣長が書き遺したものにも暗示してある武家時代以前にまでこの復古を求める大勢が押し移りつつあるということは、おそら く討幕の急先鋒をもって任ずる長州の志士達ですら意外とするところであろうと彼には思われた」と。
 かくて「御一新」である。半蔵はこれこそは「草叢の中」から生じた万民の心のなせるわざだろうと感じ、王政復古の夜明けを「一切は神の心であろうでござる」と得心する。
 半蔵が日々の多事に忙殺されながらも国学の真髄に学び、ひそかに思いえがいてきたこの国の姿は、やはり正しかったのだ。
 けれども、世の中に広まっていった「御一新」の現実はそういうものではなかった。半蔵が得心した方向とはことごとく異なった方向へ歩みはじめてしまっていた。それはたんなる西洋化に見えた。半蔵は呆然とする。ここから『夜明け前』のほんとうの思索が深まっていく。
 木曽福島の関所が廃止され、尾州藩が版籍奉還をした。いっさいの封建的なものは雪崩を打つように崩れていった。
 本陣もなくなった。大前・小前による家筋の区別もなくなった。村役人すら廃止された。享保このかた庄屋には玄米5石があてがわれていたが、それも明治5年には打ち切られた。
 それらの変化はまさに半蔵が改革したかったことと同じであるはずだった。しかし、どうも事態はそのようには見えない。そんなおり、父が死ぬ。
 いちばん半蔵がこたえたのは、村人たちが「御一新」による改革をよろこんでいないことだった。その理由が半蔵には分析しきれない。なぜ、日本が王政復古 の方向に変わったのに、村が変わっていくことは受け入れられないことなのか。もしかして、古の日本の姿は、この村人たちが愛してきた暮らしや定めの中に あったのか。半蔵の煩悶は、まさに藤村の疑問であり、藤村の友でもあった柳田国男の疑問でもあった。
 もっと答えにくい難問も待っていた。平田派の門人たちは「御一新」にたいした活動をしなかったばかりか、維新後の社会においてもまったく国づくりにも寄 与できなかったということである。半蔵がはぐくんできた国学思想は、結局、日本の新たな改変にかかわっていないようなのだ。
 それでも半蔵は村民のために“新しい村”をつくろうとした。努力もした。
 しかし、その成果は次々にむなしいものに終わっていく。山林を村民のために使いやすいようにしようとした試みは、山林事件として責任を問われ、戸長免職 にまで追いこまれた。半蔵は自信を失った。そこへもってきて、挙式を前に娘のお粂があろうことに自殺騒ぎをおこした。いよいよ日本の村における近代ならで はの悲劇が始まったのである。
 それは青山半蔵だけにおこった悲劇ではなく、青山家の全体の悲劇を迎えるかどうかという瀬戸際の悲劇でもあった。そして、その悲劇を「家」の単位でくい とめないかぎりは、馬籠という共同体そのものが、木曽路というインフラストラクチャーそのものが瓦解する。民心は半蔵から離れていかざるをえなかった。誰 も近代化の驀進に逆らうことなど不可能だった。
 半蔵はしだいに自分が犠牲になればそれですむのかもしれないという、最後の幻想を抱くことになる。
 半蔵は「一生の旅の峠」にさしかかって、すべての本拠地とおぼしい東京に行くことを決意する。そこで一から考え直し、行動をおこしてみるつもりだったのだ。43歳のときである。
 縁あって教部省に奉職するのだが、ところがそこでも、かつて国の教部活動に尽くしたはずの平田国学の成果はまったく無視されていた。維新直後の神祇局で は、平田鉄胤をはじめ、樹下茂国、六人部雅楽(うた)、福羽美静らの平田国学者が文教にも神社行政にも貢献し、その周囲の平田延胤・権田直助・丸山作楽・ 矢野玄道らが明治の御政道のために尽力したばかりのはずである。
 それがいまやまったく反故にされている。祭政一致など、神仏分離など、ウソだったのである。半蔵はつぶやく、「これでも復古といえるのか!」。
 この教部省奉職において半蔵が無残にも押し付けられた価値観こそは、いよいよ『夜明け前』が全編の体重をかけて王政復古の「歴史の本質」を問うものになっていく。が、半蔵その人は、この問いに堪えられない。そしてついに、とんでもないことをする。
 半蔵は和歌一首を扇子にしたためて、明治大帝の行幸の列に投げ入れたのだ。悶々として詠んだ歌はこのようなものだった、「蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや」。このときの半蔵の心を藤村は次のように綴る。
 その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどの止むに止まれない熱い情が一時に胸にさし迫った。彼は近づい て来る第一の御馬車を御先乗(おさきのり)と心得、前後を顧みるいともまなく群衆の中から進み出て、その御馬車の中に扇子を投進した。
 そして急ぎ引きさがって、額を大地につけ、袴のままにそこにひざまずいた。
 「訴人だ、訴人だ」
 その声は混雑する多勢の中から起こる。何か不敬漢でもあらわれたかのように、互に呼びかわすものがある。その時半蔵は逸早く駆け寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれていた。大衆は争って殆ど圧倒するように彼の方へ押し寄せて来た。
結局、青山半蔵が半生をかけて築き上げた思想は、たった1分程度の、この惨めな行動に結実しただけだった。
 それは難波大助から村中孝平におよぶ青年たちの行動のプロトタイプを、好むと好まざるとにかかわらず先取りしていた。「日本の歴史」を問おうとした者は、藤村が鋭く予告したように、こうして散っていっただけなのである。
 これですべてが終わった。木曽路に戻った半蔵は飛騨山中の水無神社の宮司として「斎の道」(いつきのみち)に鎮んでいくことを選ぶ。
 その4年後、やっと馬籠に戻った半蔵は、なんとか気をとりなおし、村の子弟の教育にあたろうとする。自分の息子も東京に遊学させることにする。この東京 に遊学させられた息子こそ、島崎藤村その人である(このとき以来、藤村は父の世界からも、馬籠からも離れていき、そして『夜明け前』を書くにいたって接近 していったのだが、おそらくはいっときも馬篭の父の悲劇を忘れなかったにちがいない)。
 しかし、馬籠の現実に生きている人々はこのような半蔵をまたしてもよろこばない。半蔵は酒を制限され、隠居を迫られる。そうしたある日、半蔵がついに狂 うのである。明治19年の春の彼岸がすぎたころの夜、半蔵はふらふらと寺に行き、火をつけた。狂ったのだろうか。藤村はこの最も劇的な場面で、よけいな言 葉を費やさない。
 半蔵の放火は仏教への放火だった。我慢に我慢を重ね、仏教に背こうとした放火であった。仏に反逆したのではない。神を崇拝するためでもない。神仏分離すらまっとうできなかった「御一新」の体たらくが我慢できなかったのだった。
 こうして半蔵は長男に縄で縛られ、息子たちや村人が用意した座敷牢に入れられる。幽閉の日々である。わずかに古歌をしたためるひとときがあったものの、 そのまま半蔵は死んでいく。まだ56歳だった。すなわち、藤村がこの作品を書いた歳である。こうして物語は閉じられる。時代は「夜明け前」にすぎなかった のである。
 青山半蔵は島崎正樹である。むろん多少の潤色があるものの、ほぼ実像に近い。
 藤村がそのような父の生涯を描くにあたって、かなり綿密に資料にあたっていたことはよく知られている。馬籠に遺る村民たちの記録や文書もそうとう正確に 再現された。しかし、それだけならこれは鴎外が『阿部一族』や『渋江抽斎』を仕立てた手法とあまり変わらない。けれども藤村は父の生涯を描きながらも、 もっと深い日本の挫折の歴史を凝視した。そして父の挫折をフィルターにして、王政復古を夢みた群像の挫折を、さらには藤村自身の魂の挫折を塗りこめた。
 なぜ、藤村はこの問題を直視する気になったのか。
 藤村はしばしば「親ゆづりの憂鬱」という言葉をつかっている。血のことを言っている。自分の父親が「慨世憂国の士をもって発狂の人となす。豈悲しからずや」と言って死んでいったのだ。これが藤村にのしかからないわけがない。
 それでも『若菜集』や『千曲川のスケッチ』を書くころまでは、父が抱えた巨大な挫折を抱えるにはいたっていないはずである。父が死んだのは藤村が15歳のときで、その後もしばらくは父親がどんな人生を送ったのか、まったく知らないままだった。
 藤村が父の勧めで長兄に連れられ、次兄とともに9歳で上京したのは明治14年のことである。
 泰明小学校に入り、三田英学校から共立学校(いまの開成中学)に移って木村熊二に学んだ。ついで明治学院に進んで、木村から洗礼をうけた。19歳、巌本 善治の「女学雑誌」に翻訳などを載せ、20歳のときに植村正久の麹町一番町教会に移った。ここまではまだキリスト教にめざめた青年である。明治女学校で教鞭をとったとき、教え子の佐藤輔子と恋愛したことに自責の念を感じているのがキリスト者らしい。
 ただし、この時期の日本のキリスト教は内村鑑三がそうであったように、海老名弾正がそうであったように、多分に日本的な色彩の濃いもので、のちに新渡戸稲造がキリスト教と武士道を結びつけたよ うに、どこか神道の精神性と近かった。このことは、青山半蔵が水無神社の宮司になって、それまでの日本の神仏混交にインド的なるものや密教的なるものが入 りこんでいることに不満を洩らすこととも関連して、藤村自身が青年キリスト者であった体験を、その後少しずつ転換させ、父が傾倒した平田国学の無力を語っ ていくときの背景になっているとおもわれる。
 つづいて透谷の自殺に出会ってから、藤村は少しずつ変わる。キリスト者であることに小さな責任も感じはじめる。
 けれどもロマンティックではあれ、まだまだ藤村は情熱に満ちている。仙台の東北学院に単身赴任し、上田敏・田山花袋・柳田国男らを知り、『若菜集』を発表、27歳のときに木村熊二の小諸義塾に赴任したときも『千曲川のスケッチ』を綴って、その抒情に自信をもっていた。
 それが30歳をすぎて『破戒』を構想し、それを自費出版したのちに二人の娘をつづけて失ってからは、しだいに漂泊と韜晦の二つに惹かれていったかに見え る。36歳のときの『春』や、そのあとの芭蕉の遍歴に自身の心を託した『桜の実の熟する時』の岸本捨吉の日々は、そのあらわれである。
 こうして、藤村は自分の生きざまを通して、しだいに父親の対照的な人生や思想を考えるようになっていく。島崎正樹すなわち青山半蔵は、藤村とちがって断 固として馬籠にとどまり、日本の古代の英知を透視して、そして傷ついていった人だった。青年藤村には歴史がなかったが、父には歴史との真剣な格闘があっ た。
 もともと自分を見つめることから始まった作家である藤村は、しだいにこの父の姿の奥に自分が見るべき歴史を輸血する。それが藤村のいう「親ゆづりの憂鬱」をもって自己を「歴史の本質」に投入させるという作業になっていった。
 しかし、たんに歴史と文学を重ねるというだけなら、それこそ露伴や鴎外のほうが多様であったし、小説的だった。藤村が描いた歴史は、あくまで“父の時代”の歴史であり、その奥に父が抱いた王政復古の変転の歴史というものだった。
 このことを藤村ほど真剣に、かつ深刻に、かつ自分の血を通して考えた作家は稀有である。それは、日本の近代に「過誤」があったのではないかという苦渋をともなっている。藤村の指摘はそこにある。そして、そのことをこそ物語に塗りこめた。
 では、過誤ではない歴史とは何なのか。過誤を避ければ苦渋がないかといえば、そんなことはもはや日本の歴史にはおこりそうもなく、たとえば三島由紀夫の自決のようなかたちでしかあらわれないものかもしれないのだが、それでも藤村は結果的ではあるけれど、唯一、『夜明け前』をもってその過誤を問うたのだった。答えがあるわけではない。むしろ青山半蔵の挫折が答えであった。
 いやいや、『夜明け前』には答えがある、という見解もある。このことをいちはやく指摘したのは保田與重郎であった。
 いまは『戴冠詩人の御一人者』(昭和13年)に収録されている「明治の精神」には、次のような意見が述べられている。「鉄幹も子規も漱石も、何かに欠けてゐた。ただ透谷の友藤村が、一人きりで西洋に対抗しうる国民文学の完成を努めたのである」。
 実はこの一文には、篠田一士も気がついていた。篠田はこの保田の一文に気をとられ、自分の評価の言葉を失ったとさえいえる。しかし、さすがに『夜明け前』を国民文学の最高傑作だというふうには言うべきではないだろう。そこは徳富蘇峰とはちがっている。
  国民文学ではないとして、もうひとつ保田の意見のやりすぎがある。それは藤村が西洋に対抗したわけではないということだ。
 ぼくが見るに、藤村にはラファエロ前派もあるし、ギリシア文学もある。藤村がフランスに行ったとき、リモージュで思いに耽るのは、そうしたヨーロッパの 浄化の力というものだった。ただ、藤村は晩年になるにしたがって、それらのヨーロッパを日本の古代的なるものや神道的なるものと直結させるようになって いった。突拍子もないことではない。白井晟一などもそうやった。
 そういうわけだから、『夜明け前』を国民文学とか西洋との対決とはいえないのだが、それでもこの作品は日本の近代文学史上の唯一の実験を果たした作品 だったのである。われわれは半蔵の挫折を通して、日本の意味を知る。もう一度くりかえてしておくが、その“実験”とは、いまなお日本人が避けつづけている 明治維新の意味を問うというものだった。
 どうも「千夜千冊」にしては、長くなってしまったようだ。その理由は、おそらくぼくがこれを綴っているのが20世紀の最後の年末だというためだろう。
 ぼくは20世紀を不満をもって終えようとしている。とくに日本の20世紀について、誰も何にも議論しないですまそうとしていることに、ひどく疑問をもっている。われわれこそ、真の「夜明け前」にいるのではないか、そんな怒りのようなものさえこみあげるのだ。

外來語 太多 (高橋鵬二訴NHK)



NHK太多外來語 日歐吉桑提告求償

〔編譯陳維真/法新社東京27日電〕日本一名71歲的歐吉桑高橋鵬二控告日本放送協會(NHK)的節目使用過多外來語,導致節目很難看懂,對他造成精神傷害,求償141萬日圓(約台幣43萬元)。
已退休的高橋認為,NHK太倚賴從英文借用的外來語,捨棄了傳統日文,擔心「日本會太美國化」,因此提出告訴。高橋的律師表示,高橋覺得日本「快要變成美國的一部分了,讓他產生危機感」。
高橋是「珍惜日本語會」成員,他曾向NHK抱怨過這個問題,但NHK忽視他的懇求,所以才訴諸法律途徑。NHK表示還沒收到法院發出的文件,暫時無法評論。
大多數的日本人都能不假思索的使用外來語,除了英文,日文中也有許多來自其他語言的外來語。例如,日文的「打工」是來自德文的「arbeit」,麵包則來自西班牙文的「pan」。
法國與加拿大法語區的傳統派也有同樣煩惱,擔心母語會受到好萊塢文化侵蝕。1994年,法國國會通過法律規定學校一定要以法文為教學語言,只有一些課程除外。

2013年6月27日 星期四

An Understudy in the Kitchen, the Nameko Becomes a Star;

Popularity of Mushroom Videogame Grows Like a Fungus in Japan

An Understudy in the Kitchen, the Nameko Becomes a Star; Lunch Boxes, Music Videos

There's a breakout hit in the Japanese gaming  world. The star? A little brown mushroom called a nameko. It's featured  in a trilogy of smartphone games called 'Nameko Saibai kit.' WSJ's  Daisuke Wakabayashi reports.

TOKYO—In the culinary pecking order for Japanese mushrooms, the nameko, a gelatinous, light-brown, tack-size variety for the ordinary Joe, doesn't carry the meaty versatility of a shiitake or the high-price allure of the seasonal and fragrant matsutake.
But in the world of smartphones, this slimy mushroom—often found in miso soups and soba noodles—is an unlikely videogame star. The trilogy of games entitled "Nameko Saibai Kit," or "the kit for cultivating nameko," is one of the most popular smartphone games since its June 2011 debut with 32 million downloads. That falls well short of Angry Birds levels of more than one billion downloads, but it is about twice the level of its nearest Japanese competitor.

The game sounds mundane but it is addictively simple. The goal is to grow and collect different (and fictitious) varieties of nameko. Harvesting—done with a swipe of the screen—more mushrooms allows users to upgrade virtual cultivation equipment such as heat lamps and humidifiers. Better equipment results in more rare types of nameko, such as the Kebab fungi (named so because of its skewer-ready shape) and Capless (no cap, only stem).
Mayumi Negishi/The Wall Street Journal
A recent event at a Tokyo toy store featured the main fungi character from a popular Japanese smartphone game about harvesting mushrooms.
The game's sprouting popularity is the latest example of Japan's preoccupation with the mushroom, or kinoko in Japanese. The country's forestry agency calls mushrooms "a blessing of the forest," while even humdrum supermarkets routinely sell a dozen different varieties of mushrooms. Certain types of fresh matsutake, or pine mushrooms, sell for as much as $800 per pound in Japan, and one of Japan's most popular snacks—Kinokonoyama (mushroom mountain)—is a mushroom-shaped cookie with a chocolate cap.
"In Japan, even kindergartners can name several types of mushrooms. The fact that everyone is so familiar with mushrooms may contribute to their popularity," said Yuto Ban, who helps promote the nameko game for software developer Beeworks.
Long before the nameko game, Japan's most famous videogame character, Mario, ate mushrooms to grow larger, handled his business in the Mushroom World and chilled with his mushroom-cap wearing buddy Toad—short for Toadstool. Shigeru Miyamoto, Nintendo's 7974.OK +6.29% legendary game designer known for creating "Super Mario Bros.," said he loves not only eating mushrooms but enjoys how they often appear in "strange or weird" stories.
Mayumi Negishi/The Wall Street Journal
Items for sale at a recent event at a Tokyo toy store.
Takashi Murakami, a contemporary Japanese artist known for his pricey handbag collaborations with Louis Vuitton, often depicts mushrooms in his paintings and sculptures. Even in corporate marketing, Japan's biggest mobile carrier NTT DoCoMo Inc. 9437.TO +5.69% uses a family of cartoon mushrooms to promote its family data plans.
Because of Japan's mountainous terrain, the Japanese are in proximity to many varieties of kinoko—translated literally as "tree's child"—and hold a deep affection for them, says Web designer Kinoko Toyoda, a pen name she uses on a blog she writes about mushrooms in art and fashion.
Every few months, Ms. Toyoda hosts "kinoko nights"—an event that draws about 100 people to exhibit works of art depicting mushrooms or show off unusual mushroom goods such as her own prized possession: an aroma candle that gives off the scent of a morel mushroom.
"The acceptance of Nameko as a game character is because the Japanese are a mushroom-loving people," said Ms. Toyoda, who celebrated her wedding with mushroom-shaped cake and added mushrooms to her flower arrangements.
The nameko game's popularity was largely happenstance. Beeworks created the amorphous, bucktoothed fungi with a short stem and spindly arms and legs as a side character in "Touch Detective," a 2006 game for the Nintendo DS. In the game, a young girl detective keeps the mushroom as a pet while solving mysteries.
When Beeworks decided to make "Touch Detective" into an iPhone game, it decided to promote the title with a simple, free app featuring the fungi character. In three weeks, the company created "Nameko Saibai Kit." Almost instantly, the game was a hit, and its main character became a multimedia sensation.
Nameko
The nameko song—which begins with the bulb-shaped mushrooms dancing under what appears to be Vincent Van Gogh's Starry Night—has been watched on YouTube over 10 million times in less than a year. A promotional video for the game cracked YouTube's top 10 most-watched videos in Japan for 2012. An illustrated encyclopedia of the different nameko characters—of which there are more than 200—was Japan's second best-selling book in the last week of April, trailing only acclaimed author Haruki Murakami's latest novel.
The game's popularity has spread beyond Japan, with a following in Taiwan, Korea and Hong Kong.
Beeworks has launched a nameko merchandising blitz covering 1,400 items such as a battery-powered bicycle emblazed with nameko, a fungi figurine wearing a sumo outfit, and cola-flavored nameko candy.
On a recent weekend, the sixth floor of a large toy shop in Tokyo received a nameko makeover as part of a one-month promotion. The floor was plastered with wallpaper featuring mushrooms, while the nameko song played on continuous loop. Shoppers snapped photos in front of a plastic nameko, looking over the hundreds of nameko products. "They're so cute! I love them," said Megumi Shinohara, 16, clutching a letter set, plastic files and a lunch box featuring an array of the mushrooms.
The popularity of the game and its characters is puzzling to some. Noboru Takayama, a nameko farmer from western Japan, said he grows the slimy mushrooms all year around and was surprised that such a game existed. More than 10 years ago, Mr. Takayama started selling a real nameko harvesting kit that comes with a pot decorated with heart-shaped logos—"to cater to girls," he says—for about $3.
"I'll be happy if the game can influence sales of our kits," said Mr. Takayama. "But playing a game is different from growing real nameko."
Write to Daisuke Wakabayashi at Daisuke.Wakabayashi@wsj.com and Mayumi Negishi at mayumi.negishi@wsj.com

2013年6月26日 星期三

Giving patent rights to employees

EDITORIAL: Giving patent rights to companies would demoralize creative employees


June 26, 2013
Under Japan’s Patent Law, patent rights to corporate in-house inventions belong to the employees who come up with the inventions.
However, the administration of Prime Minister Shinzo Abe decided in the Cabinet meeting on June 7 to consider a policy change that would award the rights to companies rather than individual inventors.
We believe patent ownership should remain with employees. A change in the system could stunt technological renovation in Japan and lead to a brain drain.
As in Japan, patent rights currently belong to employees in the United States, Germany and South Korea. But the thinking in countries such as Britain, France and China is that patent rights belong to companies because they provide the funding and research environment for in-house inventions.
A decade ago, a high-profile patent ownership lawsuit made headlines in Japan. Filed in 2001, the plaintiff was Shuji Nakamura, who developed the blue light emitting diode (LED) technology while in the employ of Nichia Corp., a chemical engineering and manufacturing company. Upon his resignation from Nichia, Nakamura sued the company, demanding 20 billion yen ($204 million) in compensation for his invention.
The Tokyo District Court ruled in favor of Nakamura, noting that his contribution is estimated to be worth 50 percent of the profit the company made from his invention.
But Nichia appealed. Following a recommendation by the Tokyo High Court, the two sides agreed to settle the case with Nichia paying 840 million yen to Nakamura. The high court put more weight on Nichia’s sales promotion efforts and other factors not related to Nakamura’s invention.
In response to the case, Keidanren (Japan Business Federation) has pressured the government to award patent rights to companies, maintaining that failure to do so could lead to numerous high-stakes compensation lawsuits.
The Abe administration’s decision was in compliance with Keidanren’s wishes. Should a new policy come into effect, companies will reward their in-house inventors by paying bonuses or other measures. This means that the inventors will only receive “rewards” at the company’s discretion, instead of being adequately compensated for their inventions under the legal rights.
Traditionally, Japanese companies have shown little regard for workers’ intellectual property. Nakamura, for instance, received a paltry 10,000-yen bonus from Nichia when an application was filed to patent his blue LED technology, and another 10,000 yen when it was patented. At the time of his resignation from the company, his annual salary was about 15 million yen, which shocked his research colleagues abroad.
They told him he was virtually a “slave” of the company.
Lawsuits similar to Nakamura’s were filed by frustrated employees of other companies. But there has been no new major case since the Patent Law was revised in 2004, encouraging negotiations between companies and workers to spell out the sums of compensation in contracts.
It would be extremely shortsighted to deny patent ownership to employees now to block future lawsuits. Such a move would not only demoralize creative workers but also give the impression that Japan and Japanese companies have no qualms about treating workers as expendable parts of the organization.
That is no way to attract competent workers.
In this age of global competition that requires originality and creativity, it is no longer acceptable to put corporate profit ahead of everything. The mother of invention is not the organization, but the creativity of individual members of the organization.
--The Asahi Shimbun, June 19

2013年版《少子化社會對策白皮書》20%的日本男性終生不結婚* 2060年 日本65歲以上老人占4成


20%的日本男性終生不結婚

     日本政府在25日召開的內閣會議上通過了2013年版《少子化社會對策白皮書》。白皮書顯示,日本女性生育第一胎的平均年齡超過了30歲,而一生不結婚的 人口比例「終生未婚率」的男性、女性比例分別達到了20.14%和10.61%。白皮書中闡述了此前沒有被充分重視的對於結婚、懷孕和生育提供支援的政策 的必要性,確定了推進信息傳達以及進一步完善地區醫療體制等政策方向。

      該白皮書去年為止曾被命名為《兒童・育兒白皮書》,因為政權更迭而改名。該白皮書參考了日本厚生勞動省的人口動態統計數據,強調指出日本女性生育第一胎的 平均年齡在2011年達到了30.1歲,首次超過30歲。該平均年齡持續處於上升趨勢,較2000年時已經上升2.1歲。

      白皮書中的「終生未婚率」參考了日本國立社會保障・人口問題研究所2010年的調查結果。該研究所對未婚者進行了意向調查,回答「終生不準備結婚」的男性為9.4%,女性為6.8%,均達到了歷史最高水平。



2060年 日65歲以上老人占四成
高齡、少子化社會災難
〔編譯管淑平/綜合報導〕日本政府三十日公布的報告指出,由於人口加速老化以及出生率持續低檔,預期到二○六○年日本人口將較目前大減三十%,即從目前的一億兩千多萬人減至八千六百多萬人,六十五歲以上老人比例將增加到將近四成,成為「超老年化社會」。
屆時人口將大減30%
根 據日本厚生勞動省附屬全國人口和社會安全研究所的這份報告,如果人口老化和出生率等條件沒有改變,預期二○六○年日本人口將從現有的一億兩千七百七十萬 人,縮減為八千六百七十四萬人,到二一一○年更將減少三分之二、到四千兩百九十萬人。報告預期日本生育率將持續降低,五十年內平均每名婦女生育數將從目前 的一.三九減少到一.三五個小孩,遠低於人口替代率。報告指出,若出生率能提高到二.○七,將能減緩人口衰減。
人口與社會安全研究所每五年 發布一次五十年期人口預測報告。今年的報告指出,由於去年日本發生強震、海嘯,日本人平均壽命略減,但不影響平均壽命增加的長期趨勢;預期到了二○六○ 年,女性平均壽命將達到九十.九三歲、男性為八十四.一九歲,屆時六十五歲以上老人將占全部人口的三十九.九%,而十五到六十四歲人口比例將占五十. 九%。
目前日本六十五歲以上人口比例逾二十%,百歲人瑞有四萬七千七百名,平均每十萬人就有三十七人,其中八十七%為女性;二○一○年日本有三千三百多人年紀達百歲以上,去年九月,日本政府公布百歲以上人口數連續第四十一年創新高。
人口少卻老化 社福負擔更重
分析家指出,人口規模較小本身並不是問題,但是人口老化就會引發許多問題,尤其是對歷經二十年經濟停滯的日本政府財政而言,在國債已達國內生產總值(GDP)的兩倍之際,人口老化將加重社會福利負擔。