2012年8月21日 星期二

赤坂門



明治初期の江戸城、幻の写真発見 東京で展示

写真:明治4年の赤坂門。明治初期に取り壊された=日本カメラ博物館所蔵拡大明治4年の赤坂門。明治初期に取り壊された=日本カメラ博物館所蔵
写真:明治4年の蓮池二重櫓(やぐら)と坂下門=日本カメラ博物館所蔵拡大明治4年の蓮池二重櫓(やぐら)と坂下門=日本カメラ博物館所蔵
 150年前に横浜で写真館を開いた日本写真の開祖の一人、下岡蓮杖(れんじょう、1823~1914)が、明治初期に撮影した江戸城周辺の紙焼き写真が 新たに見つかった。「JCIIフォトサロン」(千代田区一番町)で開催中の「150年を遡(さかのぼ)る幻の古写真~下岡蓮杖の世界」で展示されている。
 見つかったのは、一番弟子の横山松三郎が1871(明治4)年、明治政府の依頼で江戸城の撮影をした際、同行した蓮杖が撮影した8点。今はない昌平橋や鍛冶橋門のほか、天びん棒を持った人や荷車なども写っている。
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 第119景 赤坂桐畑雨中夕けい 安政6年(1859)4月 改印
あかさか きりはた うちゅう ゆうけい

第48景赤坂見附

この絵は、赤坂門へと続く、外濠を渡る土橋を、現在の赤坂見附交番のあたりから見上げたものである(二代目広重の画)。 今や、 "Mitsuke”  といえば、単に赤坂見附のことを指すようだが、そもそも見附とは番兵付の城門のことで、江戸城には36あったと言われている。 実際には、内濠沿い、外濠 沿い、或いは城内に、36以上の城門が存在していたが、どれを指して36見附というのか、正確にはわかっていない。 三十六というのが、「兵法三十六計」 や「三十六歌仙」のように、多くをあらわす言葉として響きがいいので、「三十六見附」というのだという説に説得力がある。 この見附の番についたのは、大 名家及び旗本家であり、江戸幕府には、ちゃんと見附番という役職があった。基本的に内濠沿いの見附は大名家、外濠沿いは、旗本家がアサインされ、それぞれ の家中の者が交代で門番をした。現代の時刻で言うと、午前6時に開門、午後6時に閉門されることになっていた。それ以外の時間は、許可証のある男子のみ、 くぐり戸を通ることを許されたと言う。

赤坂門

こ れは、本題の赤坂門(赤坂見附)を坂下の玉川稲荷付近から見上げたものだ。一ッ目の門へと続く土橋の坂が、外濠を渡る橋であることを気付かせないほど規模 が大きく、土を盛って土橋としたのではなく、両側を掘削して濠を掘ったことが想像できる。なお、写真では渡り櫓はすでに消失し、台座となる石垣を確認でき るのみである。

下乗門古写真 
本 来の見附の雄姿は、この写真を見ればイメージがつかめるだろう。写真の下乗門は、大手門よりもさらに内側に配された江戸城内の門構えであり、石垣の立派さ もそうだが、三方が渡り櫓で囲まれるという特に贅沢な造りとなっている。江戸城で最も堅牢であった門をほぼ完全な姿で伝えるこの写真は大変貴重である。
さて、ここで注目したいのは、その城門の呼称だ。 わざわざ、「江戸城三十六見附」という仰々しい呼び名があるにもかかわらず、ちゃんと「見附」という名称が馴染むのは、筆者の認識では8つしかない。 すなわち、浅草見附、筋違見附、牛込見附、市ヶ谷見附、四ッ谷見附、喰違見附、赤坂見附、芝口見附である。 同じ外濠の城門でも、数寄屋橋門のことを数奇屋見附とか、常盤橋門のことを常盤見附と呼ぶのを筆者はあまり聞いたことはない。では、どういう城門が、一般的に見附と呼称されてきたのだろうか。

江 戸から地方に伸びる道として、誰でも知っているのが、五街道である。 この五街道それぞれの外濠の通過点は、東海道は「芝口橋」、甲州道は「四ッ谷橋」、 中仙道は「筋違橋」、そして奥州道中、日光道中は共通して「浅草橋」である。 ここで、見附とは主要街道の出入り口の守りの俗称なのかという仮説がたつ。  では、牛込見附、市ヶ谷見附、赤坂見附はどうか。 大丈夫だ。 牛込見附は、上州道の通過点、市ヶ谷見附は、成木道(青梅街道)、そして赤坂見附は、大山道の起点だ。 基本的にこれで仮説は正しいといえよう。 しかしながら最後に残ってしまった見附がある。 喰違見附(くいちがいみつけ)である。

喰違 見附は、異色の城門だ。 実際に、この門は、城門お約束の渡り櫓付枡形ではなく、門扉のない冠木門であった。 もっと言うと、土塁を二重にした戦国期以来 の古い形式の城門構造であり、江戸城の守りを連想させる立派なものではなかった。 これはどういうことだろう。 実は、この門に限り、外濠が掘られる前か らここに存在していた。 徳川家康が初めて江戸に入ったころ、甲州から江戸に通じる四ツ谷台地から麹町台地をつなぐ峠に関所のような番兵所(伊賀番所)が 置かれた。 これが、喰違見附の起源なのである。 天下普請で、このあたりの丘を削って、外濠を作ったときも、この門は便宜上、整備されて残った。しか し、甲州道の守りは四ッ谷見附が担うことになったので、喰違見附に堅牢な城門はつくられなかった。 しかし、見附という誇り高き名称は、ここがオリジナル であるがゆえに、そのまま残ったのではないかというのが、筆者の考えである。

喰違初期 
上 は、江戸初期の喰違見附のイメージ。赤坂門同様、この両側を掘削して外濠が作られ、この山道がそのまま土橋(伊賀町新土橋)として残ることになる。ここ は、江戸城の見附の中では最も標高の高いところに位置し、今でも、ここから見下ろす真田濠、弁慶濠の風景は圧巻である。門を抜けるとすぐに現れるのが清水 谷へと下る紀尾井坂。大久保利通暗殺の地であり、明治になっても鬱蒼としていたことが想像できる。

amitsuke.jpg

なお、もし主要道の起点や通過点の門を見附と呼ぶなら、虎ノ門はどうだろう。 虎ノ門は旧東海道とも言える中原道の起点だ。 だが、トラの見附という呼称は馴染みがない。 虎ノ見附なら、聞くからに守りが堅そうなのに残念だ。虎ノ門の謎については、別の項で述べることにしよう。

江戸図119 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 マウスオンで現在


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